87 私が踏む場所では、誰も死なない
街は、危機に瀕していた。
ビルのあいだから煙が立ちのぼり、サイレンがあらゆる方向から鳴り響いていた。誰も、どこへ逃げればいいのかわからなかった。人々は何もわからないまま、命がけで走っていた。そのあいだも、黒いシルエットたちは大通りを進んでいた。行く手のすべてを、呑みこもうとするかのように。
男は、鞄を手にしたまま、通りの真ん中で立ち止まり、見つめていた。
人々が、身を隠せる場所を探して走っていくのが見えた。ビルの入り口へ。車の後ろへ。地下鉄の入り口へ。ある男性がつまずき、アスファルトに膝をついた。後ろを走っていた別の男性が立ち止まり、その腕をつかんで引き起こした。そして、二人で一緒に走り続けた。誰も、互いを知らなかった。それでも、助け合っていた。
そのとき、宙を飛んでいたシルエットのひとつが、片腕を上げた。
そのまわりで、風が渦を巻きはじめた。どんどん速く。やがてそれは竜巻となり、うなりを上げて大通りへ降りてきた。竜巻は車をアスファルトから引きはがし、紙切れのように持ち上げた。公園のそばを通ると、木々を根こそぎ、土ごと引き抜き、回転しながらさらっていった。
竜巻が、ビルに激突した。
一瞬、何も起きなかった。
それから、ビルがきしんだ。上から下まで亀裂が走り、上半分が折れて、通りの向こう側へ崩れ落ちた。ガラスとコンクリートと土煙が、雨のように降り注いだ。その轟音は、みんなの胸にまで響いた。
シルエットたちは、なおも進んでいた。一歩ごとに、その姿がはっきりしていった。
そのとき、そのうちのひとりが、ビルの上へと舞い上がった。
炎に包まれた片腕を上げ、下へ向かって火の玉を放った。まっすぐ通りへ。まだ人が残っている場所へ。
火の玉はうなりを上げて迫ってきた。通り過ぎる窓を照らし、空気を熱しながら。
男は、拳を握りしめた。
鞄を、地面に置いた。
そして、火の玉に向かって走りだした。
通りの真ん中で、足を止めた。そこに立ち、正面から迫ってくる火の玉を見据えた。背後では、人々がまだ走っていた。
「私が踏む場所では、誰も死なない」
男が言った。
動くことも、振り返ることもなく。男の前に、地面から結晶化した石の壁がせり上がった。
火の玉が、壁に激突した。
爆発が、通りを揺さぶった。熱は歩道にまで届き、燃えさしが、火の雨のようにあたり一面に飛び散った。
だが、壁は壊れなかった。
ひびひとつ、入らなかった。そのまま変わらずそこにあり、表面で消えていく炎を映して、輝いていた。
壁の後ろでは、何人かの人たちが、頭を手で覆い、地面にうずくまったまま固まっていた。少しずつ、顔を上げていった。壁を見た。まわりで消えていく燃えさしを見た。互いの顔を見合わせた。
生きていた。奇跡的に。
そして、彼らの前には、背中を向けて、あの男が立っていた。
「走れ!」
振り返らずに、男が叫んだ。
人々ははっと我に返り、四方八方へ走りだした。
ただ、ひとりを除いて。
通りの真ん中に、小さな女の子が取り残されていた。ひとりぼっちで立ちつくし、石の壁と男の背中を見つめていた。何が起きているのか、わからないかのように。
すでに走っていた人たちのひとりが、足を止めた。屈強な男だった。壁の前に立つ男と、ほとんど変わらないほどの大きな体。彼は振り返った。女の子が見えた。
そして、引き返した。
一瞬、その目が、壁の前の男の目と合った。二人は何も言わなかった。言う必要もなかった。屈強な男は悟った。自分にも、誰かを救う番が来たのだと。
彼は女の子を抱き上げ、走り去った。
壁の前の男は、ふたたび前を向いた。
煙の向こうで、敵の姿が、だんだんとはっきりしてきた。自分たちの攻撃が防がれたのを、見つめていた。
ひとりは、男の右側に現れた。背中から黒い岩の棘が突き出し、黒ずんだ血管が肌を這っていた。もうひとりは、左側に現れた。両の拳が、炎に包まれていた。
残る二人は、上空に浮かんでいた。そして、笑っていた。
そのうちのひとりは、若い女だった。水のマントが、そのまわりを渦巻いていた。耳障りな笑い声だった。
「へえ、へえ……何がいるのかしら?」
上から男を見下ろして、女が言った。
「岩の断片じゃない。かわいいこと。わたしは、水のが欲しかったのに。今日はついてないわね」
「そいつは残念だったな」
岩の棘の男が言った。
「なら、今日は俺の日だ。もっと力が欲しかったところだ。能力を高めるためにな」
「哀れなのは、これほど大きな街を、たった一人で守っているってことだ」
女の隣に浮かぶ青年が言った。
「……もっとも、ここは妙な場所だがな」
そして、何の前触れもなく、男に向かって突風を放った。
男は、後ろへ跳んだ。突風は男をかすめ、背後の街灯を真っ二つに切り裂いた。
左の男が、笑った。
「へえ、少なくとも、ちょっとは動けるらしいな」
拳の炎が、大きくなった。
「まあ、どっちにしろ、お前の断片はいただくぜ」
男は、じっとそいつを見据えた。
それから、構えをとった。足もとのアスファルトに、ひびが走った。
「なら、取りに来るがいい」
敵から目を離さずに、男が言った。




