84 ピザと、お茶と、二枚の写真
ビルのキッチンは、すっかりきれいで、ぴかぴかに光っていた。
聞こえるのは、機械のうなる音と、電子レンジの時計のカチ、カチという音だけだった。その音が、彼女をますます焦らせているようだった。ハルコはひとりきりで、水の入ったコップを手に、水面に映る自分の沈んだ顔を見つめていた。
物思いに、沈んだまま。
(うん、お茶を持って上がってきてって、呼んでくれたらいいな。そうなったら、うれしい。それに、そのついでに、彼女と話もできるし……)
ハルコは、キッチンの隅から隅まで、歩きまわりはじめた。
(でも、呼ばれてもいないのに持っていっていいのかな。どうして持ってきたんだろうって思われて、それで、いらないって言われたら? でも……友だちとして持っていくんだもん。だから、いやだなんて言えないよね?)
何か料理できないかと、冷蔵庫を開けた。
(今思い出したけど、勇作様、一日じゅう上にいるんだよね。きっとお腹すいてる。今日は誰も、食べ物を持っていってないのかな? 何してるんだろう? だったら……?)
ハルコは、ぴたりと止まった。
(何言ってるの、わたし!? あの人に何が必要かとか、何してるかとか、そんなこと考えるなんて……まるで、わたしが会社のボスみたいじゃない!)
開いた手のひらで、自分の顔をぺちんと叩いた。
深く息を吸い、冷蔵庫を閉めて、コップを流しに置いた。
そのとき、ある考えがひらめいた。
(そうだ。ピザを買いに行こう。ピザをいやがる人なんていないもん。ピザを買って、お茶もいれて、それを持っていく。そうすれば、わたしの陛下も何か食べられる)
ハルコはもう、ピザを持って入ってくる自分を見たときの、勇作の顔を想像していた。
頭の中で、勇作は書類から顔を上げ、感激したように言った。
「ありがとう、ハルコ。君は命の恩人だ。君なら、こうしてくれると思っていたよ。君は最高だ。いつでも君を頼りにできると、わかっている」
ハルコの目は、もう別次元の輝きだった。
「なあ」
想像の中の勇作は、続けた。
「何か持ってきたくなったら、いつでも遠慮なく、ここへ持ってきなさい。君なら、いつでも歓迎だ。君にはいつも、最高のものを期待しているよ」
やっと想像をやめたとき、ハルコは気づいた。
キッチンには、ほかにも二人の女性社員がいた。冷蔵庫を開けて、オモリをいくつか取り出し……しばらく前から、ハルコの妙な動きを眺めていたのだ。
ハルコは固まった。目が、お皿みたいに丸く見開かれた。ずっと独り言を言っていたのだ。誰にも見られていないと、思いこんで。
「あ……こんにちは。あなたたちだったのね」
恥ずかしさで青ざめながら、ハルコは言った。
「えっと、わたし、やることがあるから。体に気をつけてね」
そう言ってキッチンを出ていき、残された二人は、わけがわからないまま顔を見合わせていた。
*
ハルコは受付を横切り、出口へ向かった。自動ドアが開き、午後の風が正面から吹きつけた。
(よし、今度こそ。あのピザを買いに行こう)
二歩進んで、立ち止まった。
(でも、よく考えたら……歩いていったら、着くまですごく時間がかかっちゃう)
ハルコは、軽く首を回した。黒い車のそばに、彫像みたいに真面目な顔で、ホロホが立っていた。
ハルコは微笑んだ。
そして、いちばんいい顔をして、まっすぐホロホのほうへ向かった。
「ねえ、ホロホ。ピザ屋まで乗せてってくれない?」
「できない。本当に申し訳ない」
ホロホは、一センチも動かずに、きっぱりと言った。
(もう、なんて堅物なの)
ハルコは思った。
(考えるそぶりさえ、なかったじゃない)
そこで、ハルコはもっと色っぽく迫った。
「ねえ、ホロホ。どうしてわたしに、だめなんて言えるの? わたしのこと、ちゃんと見えてないの?」
ブラウスを少しずり下げるようにして、直した。
「だから、女の子に相手にされないんじゃない?」
ホロホは、顔を向けずに、横目でハルコを見た。だが、その一撃はこたえていた。
(何の話だ? 女の子に相手にされないって、どういうことだ?)
「ねえ、行こうよ」
ハルコは続けた。
「それに、乗せてくれたら、前の席に、あなたの隣に座ってあげる。窓を開けて走れば、女の子と一緒にいたって言えるでしょ。それとも、女の子と一緒のところを、友だちに見られたくないの? そんな顔だから、女の子はみんな逃げていっちゃうとか? ほら、一緒にピザ屋に行ったほうがいいって」
ホロホは、冷や汗をかいていた。
(くそ……なんで俺に彼女がいないって知ってるんだ? きっと、俺を口説いてるんだ。それに、俺の友だちの何を知ってる? 友だちに何て言われる……? たしかにそうだ。カクレなんか、昨日、女の子と映画に行きやがった。しかも、写真まで送ってきて見せびらかしてきた。ちくしょう……どうしたらいいんだ?)
「まあ、いいわ」
ハルコが言った。
「乗せてくれないなら、ほかの人に頼むから。もっとかっこいい人が、きっといるもの。もっと自信のある人がね。男の人は、自信があるほうがずっと素敵。弱っちくて、考えこんでばかりの人じゃなくてね」
ハルコはそっと手を下ろし、意地の悪い笑みを向けた。
「おい、おい、待てよ」
ホロホが言った。
「乗せてやる。ただし、条件がひとつある」
真面目な顔で、まるでどうでもいいことのように言った。
「もちろん! で、条件って何?」
ハルコはホロホの手を取り、自分の胸もとへ引き寄せて、きらきらした目で見つめた。
ホロホは、また固まった。緊張していた。自分の手がどこにあるのかを見て、考えていたことまで忘れてしまった。
メガネを直すと、レンズが光を反射した。
「車の中で、一緒に写真を撮ること。それが条件だ」
(まあ、そんな条件、のむわけないだろうけどな)
ホロホは思った。
(どっちにしても関係ない。俺は、この場所から動けないんだから)
「もちろん! ほら、行こう行こう、急がなきゃ」
ハルコはそう言って、車のほうへ歩いていった。
ホロホのあごが、がくんと落ちた。
(いったい、どうなってるんだ……? 考えるそぶりさえなかったぞ……)
車へ歩いていくハルコを、ホロホは見つめていた。顔が赤くなっていた。青ざめていた。その両方が、同時に。
「ねえ、来るの、来ないの?」
振り返って、少しむっとしたように、ハルコが言った。
「ああ、今行く」
ホロホは、ハルコが乗れるようにドアを開けた。それから車の前を回って、自分も乗りこんだ。緊張していた。ネクタイを締め直した。
エンジンをかけた。
車はサルダキを出て、街を横切り、ピザ屋のあるサンケッチに着いた。
*
ハルコは車を降りて、トミー・ピザに入った。
チリン、チリン。
外では、ホロホが車に残っていた。
(写真はもう撮った……しかも、二枚もだ!)
ホロホは思った。
(これを見せたときの、あいつらの顔が見ものだ。今日くらい、仕事から少し遅く上がったってかまわない)
両手をこすり合わせた。
(それに、彼女はピザを買いに来たんだ。だから、ピザを持ってるところを撮れば、二人でピザを買いに出かけて、公園で一緒に食べたって言える。サプライズデートだったって書いてやろう。ははは! あいつら、うらやましくて頭がおかしくなるぞ!)
車のそばを通る人たちは、足を止めて中を見つめ、誰かに何かあったのかと首をかしげていた。
ピザ屋の中では、古いテレビの笛の音楽が、いつもの隅で流れていた。リュウは、冷蔵庫に飲み物を詰めているところだった。
「こんにちは、リュウ! 元気?」
ハルコが言った。
「よう、ハルコ。元気か?」
リュウは、かすかに微笑んで答えた。
「元気だよ。リュウも、相変わらずだね」
「ああ、とても元気だ。そりゃあ、いつもと同じに見えるだろうよ」
リュウは微笑んだ。
「ピザは、すぐできる。思ったより早く来たな」
「うん、ホロホが乗せてきてくれたの」
「ああ、それじゃあ、あの若いのは、きっと車の中だな。まあ、いいさ」
リュウは窯からピザを取り出し、箱に入れた。ピザカッターを、上へ放り投げた。それが上がっていくあいだに、冷蔵庫からオモリを二本取り出して、カウンターに置いた。それから、落ちてくるカッターをもう片方の手でつかみ……ピザを八つに切り分けた。
手が動いたのが、一度見えただけだった。
「すごい、相変わらずの手さばきだね」
ハルコが言った。
「八つに切ったのに、ピースが離れたから、やっと気づいたよ」
「ああ。この手は、まだ年で錆びついちゃいねえよ」
リュウは、微笑みながら言った。
「ありがとう! もう行かなきゃ。体に気をつけてね。今度また、おしゃべりしに来るから」
そう言って、ドアへ駆けだしていった。
チリン、チリン。
「おやおや」
リュウはつぶやいた。
「何があったのか知らねえが、今日はずいぶん急いでるな」
*
車の中で、ホロホは幸せそうに笑いながら、ハンドルをとんとん叩いていた。
ハルコは乗りこんできて、ホロホが何か妙なことをしているのを見て……無視することにした。
「ねえ、もう行けるよ」
もう座って、足もとにピザを置き、シートベルトを締め終えながら、ハルコが言った。
(くそ、乗ってきたのにも気づかなかった)
ホロホは思った。横目で、ハルコを見た。
(こうして、ピザを足もとに置いてると、すごくきれいだな……出発する前に、友だちに見せる写真を撮らないと)
「さて、ピザ屋まで連れてきたからな」
真面目な顔で、それでいて張り切って、ホロホが言った。
「約束どおり、もう一枚撮らせてもらうぞ」
「でも、写真ならもう撮ったじゃない」
「ああ、でもあれは、ここまで連れてきたときの分だ。帰りの分が、まだだ」
「はいはい、わかったから。とにかく急いで」
今までの話に、ちょっと混乱しながら、ハルコが言った。
ホロホはこの機会を逃さず、二枚撮った。ピザを持って、笑っているハルコを。
(今度こそ、この写真であいつらにとどめを刺してやる。いっそ、二十四時間、俺のストーリーを見られないように、彼女をブロックしておこう。ムワハハ!)
「ねえ、ホロホ。行こうよ」
もうしびれを切らして、ハルコが言った。
「ああ、そうだな。ここで時間を無駄にしてる場合じゃない。行こう」
ホロホは勢いよく車を出した。サンケッチを出て、サルダキへ戻った。ビルの前で、二人は車を降りた。ホロホはいつものように真面目な顔で、入り口の持ち場に戻った。
ハルコはキッチンに着くと、お茶の準備を始めた。材料を取り出し、やかんを手に取って、コンロにかけた。
(よし、今度こそ)
お皿みたいに目をきらきらさせながら、ハルコは思った。
(ピザとおいしいお茶があれば、上へ行かない言い訳なんてない。サリコさんと話して……勇作様の顔を、ちゃんと見るんだ)
そして、やかんを見つめたまま、すっかり物思いにふけってしまった。




