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83 時間が、手からこぼれ落ちていった


サリコは、少し急ぎ足でビルへ向かった。


その塔は、サルダキのほかのビルのあいだにそびえ立っていた。高く、ガラス張りで、午後の空を映していた。風が入り口の木々を揺らし、道の両側の庭に咲く花々もそよいでいた。


ドアの前まで来ると、扉はささやくような音を立てて、ひとりでに開いた。


中のロビーは広く、明るかった。床はぴかぴかに磨かれ、一歩ごとにサリコのヒールの音が響いた。あちこちに社員がいた。カウンターの奥にいる者、ファイルを小脇に抱えて行き交う者、エレベーターの前で待っている者。話し声のざわめき、画面を打つ音、遠くで鳴る電話の音が聞こえていた。


サリコが入ってくるのを、みんなが目にするまでは。


話し声は、少しずつ消えていった。座っていた者たちは立ち上がった。ひとりは慌ててネクタイを直した。別のひとりは、手に持っていたコーヒーを背中に隠した。受付の女の子は、電話を途中でやめた。数秒のうちに、全員が背筋を伸ばして一列に並んでいた。


そして、いっせいにサリコへ頭を下げた。


「こんにちは、陛下」


全員が、声をそろえた。


サリコは立ち止まらずに歩き続け、手を軽く上げて、みんなに挨拶した。


通り過ぎるあいだ、背後でささやき声が聞こえた。


「急いでたね……」


「何かあったのかな?」


「きっと、クレーンの件だよ」


ほかの社員たちの後ろで、ハルコがサリコを見ていた。ハルコは頭を下げていなかった。サリコが横目で見ると、ハルコは少し照れくさそうに、手を上げただけだった。サリコは微笑み返した。


ハルコは、サリコがエレベーターのあたりに消えていくまで、その姿を見送った。


(言いたいことがあったんだけどな)


ハルコは思った。


(でも、ちょっと急いでたみたいだし……邪魔したくなかった)


ハルコは書類を手に歩き、ドアを抜けて冷蔵庫に近づいた。コップを取り、水を注いだ。


そのとき、ふと思いついた。


(着いたばかりなら、きっとお茶が飲みたいよね。持っていってあげようかな?)


飲みかけのコップを、じっと見つめた。


(でも、実際……お茶を頼まれたわけじゃないし。今持っていっていいのかな。どうしよう?)


エレベーターの扉が、七十五階で開いた。


サリコは廊下を進み、彫刻の施された木の扉の前まで来た。龍の目のひとつに触れ、扉を押した。


中では、浮遊する球体が、磁石で生まれた電気のような、やわらかな低い音を立てていた。父はいつものように椅子に座り、机の上にいくつも書類を広げ、ホログラムの画面に何かを書きこんでいた。


「やあ、サリコ。ずいぶん早かったな!」


娘が無事に着いたのを見て、勇作はうれしそうに言った。


「こんにちは、お父さん。うん、わたしたち、今着いたところ。一人で歩いて来たくなかったから、ホロホに迎えに来てもらったの」


勇作は、少し戸惑ったようにサリコを見た。


「“わたしたち”って? 一人で歩かないように、車で来たって言ったじゃないか」


「それはね……」


サリコが言いかけた。


だが、誰かがそれをさえぎった。


「勇作さんは、お茶を一人で全部飲んじまったな。あのことがあってから、もうずいぶん長いこと、あの男のことを調べてたんだろう」


キアロコが、腕を組み、バルコニーの壁の角に片足をかけて立っていた。


風が、やさしく吹きはじめた。


勇作は椅子を回し、キアロコを見た。その表情が、一気に変わった。抱えこんでいた不安が、数週間前の出来事以来、忘れていたかのような喜びに変わった。


サリコは父を見て、かすかに微笑んだ。


「やあ、キアロコ。そこにいたとは気づかなかった。元気かい?」


勇作は立ち上がり、キアロコのほうへ歩いていった。


「よければ、お茶と何か食べるものを、もっと頼もうか」


風は、まだ大きな窓から吹きこんでいた。


勇作が、手を差し出した。


「やあ、勇作さん。元気だよ……少なくとも、俺に残ってる部分はな」


キアロコは、かすかに微笑みながら、その手を握った。


「勇作さんは、どう?」


「私は元気だよ。君たちが事務所を出ていってから、どれだけ心配していたか。正直、君たちを裏切ったような気がしていた。すまなかった」


「いや、勇作さん」


キアロコは、深く息を吸った。


「本当は、謝るべきなのは俺たちのほうだ。あの日、あんなふうに出ていったんだから。時間が、俺の手からこぼれ落ちていった……もう少し、穏やかに進めるべきだったのかもしれない。勇作さんの言うとおりだった」


「時だけが、いつ口にすべきかを決められる言葉がある」


勇作が言った。


「だが、これだけのことを経てきた今、時間が私たちの手からこぼれ落ちたのか……それとも、私たちのほうが取り残されたのか、わからない」


風が、やさしく吹いた。


二人は、同時に手を離した。勇作は自分の椅子へ戻り、キアロコは事務所の中へ少し足を踏み入れた。


サリコは、満面の笑みで、うれしそうに二人を見ていた。そして勇作は、そんな娘の姿を見て、自分の娘を誇りに思った。


サリコは、深く息を吸った。扉の、龍のそばにある二つのシンボルを思い出した。


そして、机のほうへ歩いていった。


「それで、お父さん。どうしてそんなに急いでたのか、説明してくれる?」


「ああ」


勇作は真剣な顔になり、画面を見た。そこには、あの男の映像と写真が映っていた。


「ハラ通り十二番地のクレーン事故で、あの大勢の人たちを助けた人物について、必要な情報がすべて届いたところだ」


サリコは、机の上に広げられたすべての書類を、目を見開いて見つめた。


キアロコは、画面の男をじっと見ていた。それから、書類に目を落とした。そこにも、同じ男の写真があった。


深く息を吸った。


そして、書類を見つめ続けた。その目は、男の顔に釘づけになっていた。

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