82 ピザみたいに味わえよ、キアロコ
ピザ屋には、焼きたての生地の香りが漂っていた。客たちはピザの箱を手に、笑顔で出入りしていた。隅の古いテレビからは、相変わらず笛の音楽が流れていた。
窓際から、キアロコとサリコがじっと外を見ていた。
外では、あの男が角で信号が変わるのを待っていた。車が男の前を通り過ぎていく。街のざわめきが聞こえていた。信号が変わり、歩行者用の合図が灯ると、男は歩きだした。通りを渡り、建物の向こうへ消えていった。
サリコは、深く息を吸った。
「どうするつもり?」
単刀直入に、サリコが尋ねた。
「わからない」
キアロコが言った。
「少なくとも、攻撃はしてこなかった。大事なのは街だ。でも、すごく危なくなってきてる」
「そうだね。今のところは、見張っておくのがいちばんいいと思う」
「問題は、見張っても意味がないってことだ」
キアロコはそう言って、オモリをひと口すすった。
「どうしてそう思うの、キアロコ?」
ワイングラスをゆっくり揺らしながら、サリコが尋ねた。
キアロコは窓の外を見た。雲のあいだから、太陽がのぞいていた。
「戦争が、俺たちに迫ってきてる気がするんだ」
サリコは、何も言えずに固まった。
「そっか……」
やがて、サリコが言った。
「でも、ねえ。この話は事務所でしたほうがいいと思う。そっちのほうが安全だし。ここで話しちゃいけないことを、あなたが知ってるかもしれないから」
キアロコは、横目でサリコを見た。
「え?」
「あっ、ううん、気にしないで、キアロコ! ごめんね」
サリコはすぐに、うつむきながら言った。
「事務所に行きたくないなら、それでいいの。ただ……ほら、なんとなく言ってみただけ。ごめん」
「どうして、いつも謝るんだ? 何もしてないのに」
「それは……誤解されたくなかったから」
サリコは、まだうつむいたまま言った。
見ないまま、ピザの箱へ手を伸ばした。
何かをつかんだ。だが、生地の感触が違った。変だった。温かかった。
それを口元へ運びながら……顔を上げた。
固まった。
ピザじゃなかった。
キアロコの手だった。
その手をつかんだまま、口へ運ぶ途中で止まっていた。サリコは言葉を失った。全身が真っ赤になった。息が詰まって、声も出なかった。ただ、キアロコを見つめていた……そして、口のすぐそばにある彼の手を。
(いったい、何が起きてるんだ?)
キアロコは思った。
(女の子とピザを食べるのは初めてなのに……なんで俺の手を口に運んでるんだ? いつの間にこうなった? 何の話をしてたのかも、忘れちまった)
(どうして、まだ地面がわたしを飲みこんでくれないの?)
サリコは思った。
(それに、まだ手を握ったまま……傷つけないように離すには、どうしたらいいの?)
二人とも、固まっていた。緊張して。真っ赤になって。どう反応すればいいのか、わからないまま。
そのとき突然、着信音が鳴った。不穏な響きだった。
サリコはすぐに反応した。キアロコの手を離し、手首につけたピンクのセヴェリーを見た。深く息を吸って、電話に出た。
「もしもし、お父さん。何かあったの?」
「報告書が、全部そろった」
勇作が言った。
「必要なら、と思って知らせておきたかったんだ。送ろうか?」
サリコは、どう答えようか考えながら、キアロコを見た。キアロコは小さく、首を縦に振った。
「わかった、お父さん、心配しないで。できるだけ早く、そっちに行くから」
電話の向こう、事務所で、勇作はうなずいた。
「わかった。気をつけるんだよ」
電話を切ると、勇作はお茶をひと口すすり、机の上の書類にサインした。ハルコがそれを受け取り、静かに部屋を出ていった。
ピザ屋では、サリコがキアロコを見ていた。キアロコはまだ、自分のピザを取っていなかった。箱の中に残ったままだった。
「ごめんね、そんなつもりじゃなかったの」
恥ずかしそうに目を伏せながら、サリコは微笑んで言った。
「ピザ、食べていいよ」
キアロコは、箱をそっと彼女のほうへ押しやった。テーブルをこする段ボールの音に、サリコは顔を上げた。
「どっちにしても、君が食べていいよ」
キアロコが言った。
「俺はもう食べすぎた。それに、これから歩くから、腹いっぱいにしたくないんだ」
サリコはまだ恥ずかしそうに、ゆっくりとひと切れ取って、かじりはじめた。
(わたしも、少しあげたほうがいいのかな?)
サリコは思った。
(ピザを口に運んで、かじらせてあげたら、嫌がるかな? そうするべき、だよね? やる? ああもう、いったいどうしたらいいのよ!?)
「どうも、陛下。ほかに何かご入用ですか?」
リュウがテーブルのそばに立っていた。サリコは、急に地上に引き戻されたかのように、小さく跳び上がった。
「い、いえ! 大丈夫です。お気遣いなく、ありがとうございます」
「ああ、そうですか」
リュウは微笑んだ。
「キアロコと仲良くしてくださって、うれしいですよ。ご存じでしょうが、あいつはあまり付き合いやすい子じゃありませんからね。でも、あいつのそばにいらっしゃる陛下は、とても幸せそうに見えますよ」
「はい、本当に……はい、彼のそばにいると、居心地がいいんです」
サリコが言った。
「気にしないでください。ちょっと、いろいろ話していただけですから」
「ああ、お二人のこと、うれしく思いますよ」
リュウはサリコを見た。サリコは固まっていた。緊張して、まるで椅子の上で溶けてしまいそうだった。
(待って……今、わたし、なんて答えた?)
サリコは思った。
(「そばにいると居心地がいい」って何? キアロコに聞こえてなければいいけど……今日のわたし、いったいどうしちゃったの?)
リュウはキアロコをしっかりと見つめ、その肩に手を置いた。いつもの重さを感じ、深く息を吸って、続けた。
「お嬢さんを大事にしろよ、キアロコ。お前が彼女にやさしくないなんて話は、聞きたくねえぞ。いつも、やさしく、気をつけて扱うんだ。花みたいに大切にして……ピザみたいに味わえ」
二人は呆然として、リュウを見つめた。
「……今、なんて言った?」
サリコとキアロコが、同時につぶやいた。
リュウは、頭に手をやった。
「ああ……ピザを楽しんでくれってことですよ。さて、俺はもう行かないと。窯に火を入れっぱなしなのを、忘れてたもんでね」
そして、くるりと背を向けた。
二人に背を向けたまま、リュウは微笑んだ。
(そういうことだ、キアロコ)
リュウは思った。
(女には、はっきりした男にならなきゃいけねえ。はっきりしなきゃ、相手にしてもらえねえぞ)
タオルを取って肩にかけると、カウンターの奥へ戻っていった。最後の言葉に落ち着かないままの、サリコとキアロコを残して。
しばらくして、二人は立ち上がり、ドアから出ていった。
チリン、チリン。
二人が一緒に出ていくのを見て、リュウは微笑んだ。
【サリコより】
……ピザだと思ったの。本当に、ピザだと思ったの!
指が、唇にふれた気がする……
キアロコ、お願いだから忘れて。今すぐ忘れて!
それとリュウ、「ピザみたいに味わえ」ってどういう意味!?
今度ピザ屋に行ったら、あなたとわたしで、きっちり話をつけるからね!
じゃあ、また次の話でね!




