80 あなたは、わたしを知らない
第三の試練 ―― 残響の間 腐った魂
ソラは、床に倒れていた。
風が、あらゆる方向から吹いていた。四体の分身が、ソラを囲んでいた。それぞれ、違う距離をとって。ソラは動かなかった。分身たちも、動かなかった。
仰向けのまま、目を開けて、見えないものを見ようとしていた。
(くそ……体じゅうが痛い)
ソラは思った。
(それに、すごくお腹がすいてきた。痛すぎて、ここにどれくらいいるのかも忘れちゃった)
ソラは、指を足場に押しつけた。
(何かしなきゃ。ここで死ぬわけにはいかない)
声が近づいてきた。その歩みが、ソラの服をはためかせた。
『ここから生きて出ることはできないわ。だったら、もう少しそこに倒れていたらどう?』
ソラは微笑んだ。そして、構えをとりながら、立ち上がりはじめた。
「だって、あなたはわたしを知らないから。それに、外でわたしの友だちが待ってるの」
声がさらに近づき、ソラの髪を揺らした。まるで、耳もとでささやくように。
『外で待ってる人なんて、誰もいないわ。あなたはひとりよ。みんなを見捨てたの。そして、まわりにいる人たちのことを全部忘れて、ここまで来たのよ』
ソラは、一歩前へ踏み出した。
孤児の分身が、拳でソラの顔を殴り、離れていった。
だが、ソラは立ったままだった。
憎しみの分身が、ソラの脚を殴った。ソラは少し体を折り、膝をつきそうになった……だが、立ったままだった。分身は離れていった。
次に、愚かさの分身が近づき、腹を殴った。ソラは歯を食いしばって耐えた。息を乱すことなく。分身は離れていった。
もう一歩、踏み出そうとした。恨みの分身が背後から来て、背中に二発叩きこんだ。そして、離れていった。
ソラは、まだ立っていた。考えこみながら。一撃一撃に、耐えながら。
さらに何歩か進み、身を守った。分身たちがいっせいに襲いかかってきた。ソラは、腕でかろうじて身を守るのがやっとだった。やがて、ソラは立ち止まった。
そして、分身たちは離れていった。
(わかった)
心の中で思った。
(一体が攻撃してくるたびに、その打撃が違う記憶を連れてくる。どの分身かによって。でも、一撃ごとに、かすかな風も感じる……きっと、そうやって記憶を呼び起こしてるんだ)
ソラは息をついた。
(でも、ひとつだけわからないことがある……それを、わからなきゃいけない)
ソラは微笑んだ。
そして、足場の上を走りだした。目は見えないのに。
分身たちがあとを追い、殴りかかろうとした。打撃が雨のように降りはじめた。ソラは身をかがめ、跳び、身を守った。何も見えないまま。当たる打撃もあれば、当たらない打撃もあった。攻撃してくる分身によって。
憎しみの分身が近づき、ソラの腹を殴った。
だが、今度はソラがその隙をついた。
分身が離れていく前に、その腕をつかんだ。もう片方の手を上へ、首まで伸ばし、目の前にいる者を感じとった。それから、すばやく髪に触れた。それから、顔に。
分身は振りほどこうと力をこめたが、できなかった。
ソラは前へ拳を突き出し、憎しみの分身をまともに殴りつけた。分身は後ろへ吹き飛んだ。
その瞬間、恨みの分身が右から来て、蹴りを放った。ソラはその足を空中でつかんだ。分身は床に倒れ、ソラはその上に飛びかかった。
両手を顔へ。髪へ。まるで、誰なのかを確かめようとするように。服に触れた。目に触れた。もう一度、顔に触れた。
そして、わかった。
その分身たちは、ソラ自身だった。
ソラは後ろへ跳びのき、凍りついたように動けなくなった。
深く息を吸った。
そして、少しずつ、落ち着いていった。
(思ったとおりだ)
心の中で思った。
(あそこにいる分身たち……あれは、わたしなんだ。ここに入ってから、ずっと自分で自分を傷つけてた。ううん、もしかしたら、それより前から)
ソラは胸に手を当てた。
(少なくとも、前みたいに血は出てない。体の中の、あの切り傷も、内側から切り裂く毒みたいだった脈打つ痛みも、もう感じない。体が軽い。風が、肌からいろんな方向に抜けていくのを感じる……)
ソラはゆっくりと首をめぐらせた。見えないまま、感じとりながら。
(ということは、きっと、あの分身たちだ)
『どうしたの、孤児の娘?』
すべてを見ていた声が言った。
『もうあきらめたの? そこでじっとして、動かないつもり? それなら、一撃で殺して、さっさと終わらせてあげられるわ』
ソラは微笑んだ。
そして、また走りだした。分身たちがあとを追った。だが今度のソラは、走り方が違った。肩の力が抜けて、落ち着いていた。
(わかった)
心の中で思った。
(走っていても、分身たちがどこへ動いているのか感じられる。どこから来るかも。まるで、風の糸でわたしとつながってるみたいに)
分身たちが追いつき、殴りかかってきた。ソラは何体かをかわした。ほかの分身たちは、まだソラを打ち続けた。
そのとき、愚かさの分身がソラの腹を蹴り、足場の上を何メートルも転がらせた。
ソラは構えをとろうとした。打撃で血を吐きながら、立ち上がった。息が荒かった。
『ねえ、知ってる? わたしも、あなたを知ってるのよ』
声が、笑いながら言った。
『何をしたって、あなたは結局、自分の憎しみで死ぬの。自分の恨みでね。あなたはずっと、愚かな娘のまま。孤児のまま、箱の中で死ぬのよ』
「言いたいことはわかる」
ソラは答えた。
「でも、残念だけど、それを見る楽しみはあげられない。だって、あなたはわたしのことを、完全には知らないから。わたしが誰なのか、あなたは知らない。それに、わたしもあなたが誰なのか知らないけど……あなたのゲームは、もうすぐ終わる」
『何を言ってるの、愚かな娘? もう立ち上がるのはやめて、床に倒れてなさい! 自分の憎しみと恨みに溺れなさい! 床に倒れたまま、死になさい!』
ソラは立ち上がった。
両手を体の前で合わせ、足場の上で静かに立った。
すると、ソラと分身たち一体一体をつなぐ風の糸が、光りはじめた。だんだんと強く。
『今すぐ死ぬべきなのよ!』
声が叫んだ。
声は風の波を放ち、ソラを後ろへ押し戻そうとした。だが、ソラは動かなかった。風がソラの服を揺さぶった。分身たちの服と同じように。まわりのすべてをかき乱しながら。
それでも、ソラはそこに立っていた。両手を合わせたまま。
目を閉じた。
そして、美しい微笑みを浮かべて、言った。
「あなたがわたしを知らないってこと、見せてあげる」
風の糸が、どんどん深い青へと染まっていった。




