79 愚かな孤児、憎しみ、恨み
第三の試練 ―― 残響の間 腐った魂
風が、静まりはじめていた。
ソラの服と髪は、今はもう軽やかに揺れるだけで、やわらかな風にかすかになびいていた。ソラは、透明な足場の上に立ち続けていた。そこに足を踏み入れた瞬間から、ずっと目を閉じたまま。
深く息を吸った。
それから、目を開けようとした。
だが、開かなかった。少なくとも、ソラはそう思った。
遠くで、あの声が、軽やかな歌のように響いていた。ほとんど甘いと言ってもいいその歌声は、雲のあいだを漂っていた。
「わたし、どうしちゃったの?」
ソラは両手で顔に触れた。
「何も見えない……目が、開けられない……」
指先で、まぶたに触れた。開いていた。なのに、目の前には何もなかった。ただ、闇だけ。その瞳は、真っ白に染まっていた。
声が、軽い風のように近づいてきた。
『本当はね、何があったとしても……あなたは、孤児の娘なのよ』
「そんなふうに言わないで!」
ソラは苛立って叫んだ。
「わたしが誰なのか、知りもしないくせに! わたしは孤児なんかじゃない!」
その瞬間、ソラの体から風が噴き出した。ソラには見えなかったが、左手の数メートル先で空気が渦を巻き、形をとった。同じ背丈、同じ髪、同じ服。
ソラ自身の、分身。
『あなたは何もわかっていない、ただの愚かな娘よ』
声は、笑いと憎しみの入り混じった調子で言った。
『そして、その愚かさのせいで、ここで死ぬの』
「わたしのこと、何も知らないくせに!」
ソラは拳を握りしめ、まわりを見ようとした。だが、できなかった。
「それに、どうしてまだこんな場所にいるのかもわからない……あなたが誰なのかも!」
『あなたは、ただの愚かな娘。それがあなたよ。これまでも、これからも、ずっとね』
ソラは叫び、まるで声の主を探すかのように、足場の上でくるりと振り向いた。
「わたしは、ただの愚かな娘なんかじゃない!」
風が、またソラの体から噴き出した。右手の数メートル先で、もうひとつの渦が形をとった。
二体目の分身。
『あなたはここで死ぬのよ。命乞いをしながらね』
ソラの髪と服がはためくなか、声が言った。
『あなたを殺すのは、あなた自身の憎しみよ』
「わたしに憎しみなんてない! 誰のことも憎んでなんかいない!」
ソラは、何かを、何でもいいから見ようとしながら叫んだ。
「もし誰かを憎むとしたら、それはあなたよ! わたしをこんな場所に閉じこめてるんだから!」
さらに風が、ソラから噴き出した。今度は背後の数メートル先で、三体目の分身が音もなく立ち上がった。
声が笑いだした。だんだんと大きく。まるで、それこそが待っていた答えだとでも言うように。笑い声のあいだに、ソラの死を望んでいるかのように。
『いいわね。その憎しみが、わたしへの恨みを生むのよ。じゃあ、わたしを殺したいの?』
声は遠ざかりはじめ、だんだんとやわらかくなっていった。
『そんなに望むなら……どうして、わたしを殺しに来ないの?』
「わたしのことなんて、何もわかってないくせに! わたしはただの孤児なんかじゃないし、ましてや愚かなんかじゃない!」
ソラの声は、怒りでかすれていた。
「あなたを憎んでるのは、わたしをここに閉じこめてるからよ。これは、あなたへの恨み。もう持ってる。こんなところに閉じこめられてるんだから! だから、さっさとここから出して!」
これまでになく強く、風がソラの腕から、胸から、足から噴き出した。目の前の数メートル先で、四体目の分身が形をとった。
四体の分身が、ソラを囲んでいた。左に、右に、背後に、正面に。動かず。待っていた。
そして、ソラにはそのどれも見えなかった。
『それで、どうするの?』
声が尋ねた。顔はないのに、微笑んでいるのがわかった。
『わたしの姿も見えないのに、どうやってわたしに勝つつもり? 本当に勝てると思ってるの……自分自身にさえ勝てないのに?』
ソラは拳を握りしめた。
(そうだ)
心の中で思った。
(ここに入ってから、一度もあの声の姿を見られてない。今は何も見えない。全部真っ暗。真っ暗すぎて、考えることさえできない……早く、ここから出なきゃ)
『どうしたの?』
風が足場全体に吹きつけた。
『わたしに勝つって言ったじゃない。どうして、そこで動かずにいるの?』
「あなたに手が届いたら、その瞬間に」
ソラが言った。
「殺してやる」
ソラはくるりと回りながら、声を探した。見つからなかった。正面へ一歩、踏み出そうとした。
そして、恨みの分身が動いた。
乾いた一撃が、まっすぐ腹に入った。
息ができなくなった。
その瞬間、痛みと一緒に、怒りがこみあげてきた。何も見えない。あの声に触れることもできない。すぐ近くにいるのに、傷つけることもできない。
「な……何、今の?」
ソラは体を折り曲げ、息を整えようとしながら、喘いだ。
「まさか……あいつが、わたしを殴ったの?」
『まだ待ってるのよ、あなたが攻撃してくるのを』
声が言った。
『わたしは、あなたの目の前にいるわ』
ソラは深く息を吸い、構えようとした。一歩、後ろへ下がった。
孤児の分身が左から飛びかかり、脇腹を蹴りつけた。
ソラは足場の上を何メートルも転がった。そして転がりながら、蹴りよりも強く、記憶がソラを打った。ひとりぼっちでいたこと。誰もいなかったこと。家族のいない子どもだったこと。
立ち上がろうとしたが、痛みがそれを許さなかった。口の端から、血がひと筋流れていた。
「いったい何が、わたしを殴ってるの?」
ソラは咳きこんだ。
「見えなきゃ、防げない……ここに来てから一度もあいつの姿を見てないし、全部真っ暗で……」
憎しみの分身が、背後から襲いかかった。蹴り。
そして、それと一緒に、もうひとつの記憶。事務所。アンジーニ。そして、どうしても振り払えなかった、あの苦い思い。(あの人に、負けた)。あのとき、彼女に向けた憎しみ。
次に、愚かさの分身が右から襲ってきた。
そしてソラは、自分自身の姿を見た。小さくて、箱の中で暮らしている自分を。
それからまた、正面から恨みの分身。次に左から、孤児の分身。
打撃が、次から次へと襲ってきた。あらゆる方向から。腕。脇腹。背中。脚。一撃ごとに、痛み。一撃ごとに、血。そして一撃ごとに、ソラが感じまいとしてきたものが、よみがえってきた。
そのとき、憎しみの分身が近づいてきた。
そして、下から突き上げるように拳を放った。
ソラは宙に吹き飛ばされた。
その瞳は、まだ真っ白なままだった。ゆっくりと落ちていくあいだ、まるで空気がもう少しだけ彼女を支えているかのように、口から血がこぼれていった。痛みのなかで、歯を食いしばり、ソラはささやいた。
「この憎しみで……あなたを殺してやる」
ソラは足場の上に落ちた。
一度、跳ねた。二度。三度。
そして、そのまま動かなくなった。
声は、黙りこんでいた。
まるで、目の前の光景を楽しんでいるかのように。




