78 割れたグラスが語ったこと
外では、美しい午後が続いていた。ピザ屋の匂いが歩道まで漏れ出し、通りからでもオレガノの香りがした。トミー・ピザの前を通る人々は、知らず知らずのうちに店のほうへ顔を向けていた。まるで、焼きたてのピザの匂いに、そうさせられているかのように。
だが、店の中は違っていた。
男の確かな足音が、カウンターへ向かって響いていた。見ないようにしながら、食事を続けている客もいた。三人の女の子たちは、自分たちのテーブルから男を見つめていた。サリコとキアロコは、警戒しながら、横目で男の姿を追っていた。
男はスツールの横に鞄を置き、カウンターの前に腰を下ろした。そして、ひと言も発さずにリュウを見た。
リュウは、いつもの愛想のよさで、布巾でカウンターを拭いた。
「いらっしゃい。何にしましょう?」
男は答えなかった。ただそこに座り、用心深く店内を見回している。
リュウは一杯こしらえて、男の前に置いた。
「店のおごりだよ」
それから作業台に戻り、ピザの生地をこね始めた。
その手が、少し震えていた。
(まいったな……いったい誰なんだ、この旦那は)
心の中で思った。
(なんで、息が詰まるような感じがするんだ? こんな感覚、キアロコのときしか味わったことがねえのに……)
リュウは、ちらりと後ろを振り返った。まず男を、それから窓際のテーブルを。そこで、キアロコもまた男を見ていることに気づいた。
(いったい、何が起きてるんだ? それとも、めまいでもしてるのか? まあ……仕事に戻って、余計なことは考えねえでおくか)
隅では、古いテレビが相変わらず笛の音楽を流していた。まるで、店の空気が変わったことを、誰からも知らされていないかのように。
レイコは男から目を離さなかった。頬杖をついたその顔は、うっすらと赤い。
「ほらね?」
友達に言った。
「あれこそ、本物の男よ」
「いったい何言ってんの?」
ソヤコが、まるで男と同じ場所にいるのが怖いかのように、席で縮こまりながらささやいた。
「あのおじさん、顔にも腕にも『危険』って書いてあるじゃない。『どけ』って言ってるのよ」
「うん……わたし、家でやらなきゃいけないことがあったの、忘れてた」
ユキコが言った。レイコから奪ったピザのことなど、もうすっかり頭になかった。
立ち上がってバッグを手に取り、テーブルにお金を置いた。
「うん、わたしも帰らなきゃ」
ソヤコも同じようにして、服を整えながら言った。
チリン、チリン。
二人は、ほとんど同時にドアから出ていった。
「うそでしょ!」
レイコは、去っていく友達を見ながら、がっくりとテーブルに突っ伏した。
「誰が最初にあの人に話しかけるか、ゲームするんだと思ってたのに……」
ため息をついた。
「これじゃあ、ひとりで帰らなきゃいけないじゃない」
窓際のテーブルでは、キアロコとサリコが座ったまま、店内のどんな動きにも気を配っていた。
キアロコは、何も言わずにオモリをひと口すすった。
サリコは、窓ガラスのほうへ少しだけ顔を向けた。そこには、カウンターが映っていた。
「あの人、だよね?」
「ああ」
キアロコが言った。
「昼間の、あの人だ」
チリン、チリン。
ベルがまた鳴った。出ていくのはレイコだった。
だが、ドアを閉める前に足を止め、カウンターに背を向けて座る男に、最後の一瞥を投げた。まるで、帰り道に持っていくために、心のカメラで写真を撮るかのように。白目をむき、口の端からよだれをひと筋垂らしながら。
それから、出ていった。
サリコはそれを見て、こっそり笑った。
リュウは、もう何年もこのカウンターの向こうに立ってきた。尋ねなくても、人を読むことを覚えていた。どう座るか。何を見るか。何に触れないか。そして、タダの一杯が、どんな質問よりも人の口を開かせることも知っていた。
深く息を吸い、生地を置いて、男に近づいた。
「あんた、この辺の人間じゃないだろ?」
客の相手に慣れた……そして、客から話を聞き出すことにも慣れた人間の、自然な口ぶりだった。
男はリュウを見た。それから、髪をかき上げた。
「ああ。この辺の者じゃない」
「だろうな」
リュウはカウンターに両手をついた。
「てことは、何か仕事を持ってきたか……それとも、仕事を探しに来たってとこか」
男はため息をつき、妙な表情でピザ屋の主人を見つめた。まるで、言い当てられたことに驚いているかのように。
「その鞄と、腕輪の紋様と、そのイヤリングでな」
リュウが説明した。
「あんたの来たところのことは、多少は知ってるもんでね」
「ああ……いくつか、忘れてたことがある」
男は少し目を伏せた。
「ここには、物を届けに来ただけだ。出張でな。それに、この星には前にも来たことがある。ただ、この店に入るのは初めてだ」
「なるほどな。で、いい店に入ったもんだぜ。ここのピザを食ったら、あとで箱ごと持って帰りたくなっても、俺のせいにしないでくれよ」
リュウはにっと笑い、小さく声を上げて笑った。
窓際から、サリコとキアロコは好奇心いっぱいでその光景を見ていた。リュウがもう男と話し込んでいるなんて信じられず、何を話しているのか知りたくてたまらなかった。二人はカウンターから目を離さず、ゆっくりとピザを食べていた。
「ああ、この店の匂いもそう言ってる」
男は、何かを探すように店内を見回しながら答えた。
「だが、正直、あまり腹は減ってないんだ。たまたま入っただけでな」
「そうかい」
リュウは布巾を取り、もう乾いているグラスを拭き始めた。
「で、ここには長くいるのかい?」
「必要なだけだ」
「ほう」
リュウはグラスを元の場所に戻し、別のグラスを手に取った。
「ひとり旅かい? 仕事でそんな長旅をするやつってのは、家で誰かを待たせてるもんさ」
男は、少しのあいだ黙りこんだ。初めて、その顔の険しさが、わずかにゆるんだ。
「ああ、待ってる。妻と息子がな」
「だったら、その仕事はさっさと片づけるんだな」
リュウは顎でグラスを指した。
「家族ってのは、いつまでも待っててくれるもんじゃねえ」
「そのつもりだ」
リュウは、まるで天気の話でもしているかのように頷いた。それから、少し声を落とした。
「今日は、街が妙な一日だったんだ。知ってるかい? みんな、大通りのクレーンの話で持ちきりさ。地面から石の柱が出てきて、クレーンを支えたんだと。死人はひとりも出なかったらしい」
男は答えなかった。
グラスを握る手の指が、少しだけ締まった。
「やるべきことを、ただやるだけの日もある」
ようやく、男はそう言った。
「だろうな」
リュウは拭く手を止めずに、横目で男を見た。
「じゃあ、今日は俺のピザは持って帰らないってわけだ。まあ、次は頼むぜ」
「ああ。次にする。今はこれで十分だ」
男は一気にあおり、グラスをカウンターに置いた。
グラスに、小さなひびが入った。
「おっと、文句ひとつ言わずに飲み干したな」
リュウはグラスを手に取り、布巾で拭きながら言った。
「少し強めに作ったんだがな」
男は財布を取り出し、いくらかのお金をカウンターに置いた。
「いやいや、そいつは店のおごりだ」
リュウが言った。
「気にすんな。次でいいさ」
「ああ、それはもう聞いた」
男は立ち上がり、鞄を手に取った。
「その金は、入るときにドアの錠を壊しちまった分だ。すまない。今日は、あまりいい日じゃなかったんでな」
そして、出口へ向かって歩きだした。
「お、おう……いいってことよ。あとで取り替えとくさ」
そのとき、リュウは手にしたグラスを見た。
ひびが入っているだけではなかった。
割れていた。
一瞬、呆然とした。それから、それをゴミ箱に捨て、カウンターの上のお金を取った。
チリン、チリン。
男はドアを開けた。外へ出るため、ちょうど窓際のテーブルのすぐ横を通る。サリコとキアロコは、張りつめた好奇心にとらわれたまま、固まっていた。
男は、わずかに顔を向けた。
二人を見た。
そして、良い午後を、とでも言うように、軽く会釈した。
そして、出ていった。
ベルが鳴った。ドアが閉まった。
そして、店の空気が、少しずつ落ち着いていった。
カウンターの奥で、リュウは湿った布巾で頭を拭った。体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。空気が、元の重さに戻っていく。リュウにとっても、ピザ屋全体にとっても。
ゴミ箱の、割れたグラスに目をやった。
(出張、ね……あんな手で)
古いテレビの笛の音楽が、隅で鳴り続けていた。




