8 約束と、いのち
娘を腕に抱えたまま、建物から建物へ跳んだ。
高みから、すべてが燃えているのが見えた。
赤。青。サイレン。混沌。
だが彼の心にあったのは、たったひとつだけだった。
(あの子は……まだ生きているか。まだ病院にいるはずだ)
建物から建物へ跳ぶ。腕の中の娘は、意識を失っていた。
風がその髪を揺らしていた。
月が、この子がどれほど美しいかを照らし続けていた。あれだけひどい目に遭ったあとでも。
キアロコは跳びながら、一秒だけその顔を見た。
眠っている顔だった。
そして足を止めることなく、病院へ向かった。
時間が彼を罰していた。
だが、失敗するわけにはいかなかった。
キアロコは稲妻のように病院へ着いた。
胸が焦燥で焼けていた。考えていたのは、ひとつだけだった。
(まだ生きているか)
娘を看護師の手に預け、無事であることを確かめた。
咳き込んではいたが、峠は越えていた。
キアロコは廊下の影に紛れた。
窓越しに、あの子が見えた。
白いシーツに包まれた少女。時間そのものに忘れられていくかのように、脆かった。
部屋の中で、二人の人間が話していた。
「これ以上、医療費を負担し続けることはできません……」
「近いうちに、退院していただくしか……」
影の中で、キアロコは拳を握りしめた。
(あの子を追い出させはしない)
(死なせはしない)
誰かを傷つけたいわけではなかった。
だが、あの子が傷つけられるのを許すつもりもなかった。
*
そのとき、慌ただしい足音がいくつも聞こえた。
ストレッチャーの音。看護師の声。扉の向こうから、叫び声が上がった。
「コード12!」
病院全体が凍りついたようだった。職員が全員、持ち場を離れた。
まるで、その符牒を運命が用意していたかのように。
キアロコが救ったあの娘が、玄関に立っていた。
職員たちは、すぐに気づいた。
この病院の、正当な所有者だった。
娘はただ、こう言った。
「大丈夫です。仕事に戻ってください」
誰も何も言わなかった。全員が黙ったままだった。
職員はそれぞれの持ち場へ戻っていき、娘は歩き出して、階段の先へ消えていった。
キアロコは静かに病室を出た。
救われた娘が、彼を見た。近づいてきた。
そしてベッドの上の少女を見て、こう尋ねた。
「あの子は誰なんですか。……お姉さん?」
「違う」
キアロコは短く答えた。
娘の顔が赤くなった。
「ま、まさか……娘さん、とか」
慌てて、手で口を覆う。
「違う」
そう言ってから、キアロコは続けた。
「……だが、守れる相手がいるなら。死なせはしない」
娘は頷いた。
「助けてくださって、ありがとうございました。あの子には何も起こさせません。約束します」
扉の窓越しに少女を見ながら、そう言った。
キアロコは答えなかった。
ただ、娘と並んで廊下を歩いた。
*
そこへ、娘の父親が現れた。
顔じゅうに涙と喜びを浮かべて。
「ありがとう! ありがとう! 生きてる、生きてるじゃないか!」
泣いているようにも聞こえる笑い方だった。
「救急車が運んでくれてな……わしは無事だ。ここで何があったんだ」
「たいしたことじゃない」
キアロコは足を止めずに言った。
「俺の仕事は終わった」
老人が、そっと彼を引き止めた。
「まだ話がある……わしと娘を、あのビルまで連れていってくれ。そこなら安全だ。そのあとは……好きに行っていい」
そして、こう続けた。
「それと、あの部屋の子だが……あの子は、これからお前のものだ。好きなように守ってやれ」
キアロコは目を落とした。
「……気にしないでくれ。俺は俺の役目を果たす。あんたは、あんたの約束を果たせ」
老人は、老いた者だけが持つ静かな落ち着きで微笑んだ。自分の娘を見ながら。
「あの子のために……わしは一生働いてきた」
そして医師を二人呼んだ。
「あの部屋の子に、できるかぎり最善の治療を。何ひとつ惜しむな」
「承知しました、会長。何も起こさせません。お約束いたします」
キアロコは、ようやく――胸から何かが下りていくのを感じた。
ビルをひとつ肩に担いでいて、それをやっと下ろしたかのように。
「……ありがとう」
そう呟いた。
「行こう。ビルへ向かわねばならん」
*
ビルへ走るあいだ、空気はますます張りつめていった。
彼らの知っていた街が、混沌に飲み込まれていく。
目的地へ一歩近づくごとに、空気が重くなった。
中で何を見つけるかという恐怖だけではない。もう引き返せない、というその事実が重かった。
マフィア。犯罪者。自分たちには誰も手を出せないと信じている人間たち。どの角にもいた。
それでもキアロコと、娘と、その父親は、進むことを選んだ。
自分たちだけが知っている目的に、押されるようにして。
ビルに着いたとき、待っていた光景は、想像していたものとはまるで違った。
いつもは警備され、整然としていた入口が、今は疲れきった人間の混雑になっていた。
不安げな顔。影からこちらを窺う、盗み見るような視線。
マフィアの気配が空気に満ちていた。重く、止めようもなく、完全に制御を失って。
三人は躊躇わなかった。
一階、また一階と進んでいく。一歩ごとに、すべてが始まったあの執務室へ近づいていった。
扉が、軋みを上げて開いた。
その音は、凶兆のように響いた。
そして――いつも父親が座っていた、その椅子に。
ランガンがいた。
冷たい目が、あらゆる権威を嘲るようだった。
キアロコは無言のまま、表情を変えなかった。
だが、娘は――
何かが壊れてしまったことを、その瞬間に悟った。




