↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/87

8 約束と、いのち



娘を腕に抱えたまま、建物から建物へ跳んだ。


高みから、すべてが燃えているのが見えた。


赤。青。サイレン。混沌。


だが彼の心にあったのは、たったひとつだけだった。


(あの子は……まだ生きているか。まだ病院にいるはずだ)


建物から建物へ跳ぶ。腕の中の娘は、意識を失っていた。


風がその髪を揺らしていた。


月が、この子がどれほど美しいかを照らし続けていた。あれだけひどい目に遭ったあとでも。


キアロコは跳びながら、一秒だけその顔を見た。


眠っている顔だった。


そして足を止めることなく、病院へ向かった。


時間が彼を罰していた。


だが、失敗するわけにはいかなかった。


キアロコは稲妻のように病院へ着いた。


胸が焦燥で焼けていた。考えていたのは、ひとつだけだった。


(まだ生きているか)


娘を看護師の手に預け、無事であることを確かめた。


咳き込んではいたが、峠は越えていた。


キアロコは廊下の影に紛れた。


窓越しに、あの子が見えた。


白いシーツに包まれた少女。時間そのものに忘れられていくかのように、脆かった。


部屋の中で、二人の人間が話していた。


「これ以上、医療費を負担し続けることはできません……」


「近いうちに、退院していただくしか……」


影の中で、キアロコは拳を握りしめた。


(あの子を追い出させはしない)


(死なせはしない)


誰かを傷つけたいわけではなかった。


だが、あの子が傷つけられるのを許すつもりもなかった。



   *



そのとき、慌ただしい足音がいくつも聞こえた。


ストレッチャーの音。看護師の声。扉の向こうから、叫び声が上がった。


「コード12!」


病院全体が凍りついたようだった。職員が全員、持ち場を離れた。


まるで、その符牒を運命が用意していたかのように。


キアロコが救ったあの娘が、玄関に立っていた。


職員たちは、すぐに気づいた。


この病院の、正当な所有者だった。


娘はただ、こう言った。


「大丈夫です。仕事に戻ってください」


誰も何も言わなかった。全員が黙ったままだった。


職員はそれぞれの持ち場へ戻っていき、娘は歩き出して、階段の先へ消えていった。


キアロコは静かに病室を出た。


救われた娘が、彼を見た。近づいてきた。


そしてベッドの上の少女を見て、こう尋ねた。


「あの子は誰なんですか。……お姉さん?」


「違う」


キアロコは短く答えた。


娘の顔が赤くなった。


「ま、まさか……娘さん、とか」


慌てて、手で口を覆う。


「違う」


そう言ってから、キアロコは続けた。


「……だが、守れる相手がいるなら。死なせはしない」


娘は頷いた。


「助けてくださって、ありがとうございました。あの子には何も起こさせません。約束します」


扉の窓越しに少女を見ながら、そう言った。


キアロコは答えなかった。


ただ、娘と並んで廊下を歩いた。



   *



そこへ、娘の父親が現れた。


顔じゅうに涙と喜びを浮かべて。


「ありがとう! ありがとう! 生きてる、生きてるじゃないか!」


泣いているようにも聞こえる笑い方だった。


「救急車が運んでくれてな……わしは無事だ。ここで何があったんだ」


「たいしたことじゃない」


キアロコは足を止めずに言った。


「俺の仕事は終わった」


老人が、そっと彼を引き止めた。


「まだ話がある……わしと娘を、あのビルまで連れていってくれ。そこなら安全だ。そのあとは……好きに行っていい」


そして、こう続けた。


「それと、あの部屋の子だが……あの子は、これからお前のものだ。好きなように守ってやれ」


キアロコは目を落とした。


「……気にしないでくれ。俺は俺の役目を果たす。あんたは、あんたの約束を果たせ」


老人は、老いた者だけが持つ静かな落ち着きで微笑んだ。自分の娘を見ながら。


「あの子のために……わしは一生働いてきた」


そして医師を二人呼んだ。


「あの部屋の子に、できるかぎり最善の治療を。何ひとつ惜しむな」


「承知しました、会長。何も起こさせません。お約束いたします」


キアロコは、ようやく――胸から何かが下りていくのを感じた。


ビルをひとつ肩に担いでいて、それをやっと下ろしたかのように。


「……ありがとう」


そう呟いた。


「行こう。ビルへ向かわねばならん」



   *



ビルへ走るあいだ、空気はますます張りつめていった。


彼らの知っていた街が、混沌に飲み込まれていく。


目的地へ一歩近づくごとに、空気が重くなった。


中で何を見つけるかという恐怖だけではない。もう引き返せない、というその事実が重かった。


マフィア。犯罪者。自分たちには誰も手を出せないと信じている人間たち。どの角にもいた。


それでもキアロコと、娘と、その父親は、進むことを選んだ。


自分たちだけが知っている目的に、押されるようにして。


ビルに着いたとき、待っていた光景は、想像していたものとはまるで違った。


いつもは警備され、整然としていた入口が、今は疲れきった人間の混雑になっていた。


不安げな顔。影からこちらを窺う、盗み見るような視線。


マフィアの気配が空気に満ちていた。重く、止めようもなく、完全に制御を失って。


三人は躊躇わなかった。


一階、また一階と進んでいく。一歩ごとに、すべてが始まったあの執務室へ近づいていった。


扉が、軋みを上げて開いた。


その音は、凶兆のように響いた。


そして――いつも父親が座っていた、その椅子に。


ランガンがいた。


冷たい目が、あらゆる権威を嘲るようだった。


キアロコは無言のまま、表情を変えなかった。


だが、娘は――


何かが壊れてしまったことを、その瞬間に悟った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。