7 父さんはここにいる
マフィアたちは、書類で覆われた長机を囲んでいた。
娘は隅の椅子に縛りつけられていた。
破れた服。汚れて、擦り切れた服。赤く腫れ上がった目。
必死にあちこちを見回している。口を塞ぐテープの奥で、声にならない叫びを上げながら。
父親は、入口の扉の角に縛られ、膝をついていた。マフィアの一人が、煙草をふかしながらその身体を押さえつけている。
殴られていた。
唇は切れ、髭には血が乾いてこびりついている。片方の目は腫れ上がり、もう半分しか開かない。
息をするたび、肋の奥で細い音が鳴った。
煙と、古い段ボールの匂い。この部屋で吸える空気は、それだけだった。
震えていた。
娘を見て、割れた声で、唇をほとんど動かさずに囁いた。
「大丈夫だ……大丈夫だからな。お前はここから出られる」
言いながら、その空気の匂いに、くしゃみが出た。
四人の男が見張っていた。
一人は書類を手に、机の脇に立っている。
頭は椅子に腰かけ、煙草をふかしていた。
もう一人は壁の角にいた。苛立っていた。近いうちに誰かを殺せるのを待っているような顔で。
残る二人は、それぞれ別の方向へ目を配っていた。
「ここに署名しろ」
素っ気ない声だった。
「そのあとで、連れて帰ればいい」
「署名する……」
父親の声は壊れていた。
「だから、あの子には手を出さんでくれ……頼む」
扉のほうから、そう叫んでいた。
上座に座った男は、ただ笑っているだけだった。
口も開かない。映画でも観るような目で、その光景を眺めていた。
権力に汚れきった連中だった。
まるで、恐怖が音楽であるかのように。
そのとき、奥の扉が開いた。
*
数日前にキアロコと接触した、あの二人が入ってきた。
先頭はラフィクス。いつもの、顔の半分をねじ曲げるあの笑みを浮かべて。
キアロコの横を、二度見もせずに通り過ぎた。
そして老人を見た。扉の脇で床に縛られ、マフィアの一人に髪を掴まれたままの老人を。
「よくやった、坊主」
ラフィクスは笑みを崩さなかった。
「じいさんを連れてきてくれたな」
アタッシュケースを取り出した。ゴミでも捨てるように床へ放る。
ケースは埃だらけの床を転がった。何度も跳ね、一回転ごとに埃の螺旋を巻き上げながら――
キアロコの足元で、ちょうど止まった。
「そら、報酬だ」
ラフィクスは、ほとんど慈しむように両腕を広げた。
「数えてもいいぞ。仕事は果たした。もう帰っていい」
父親は頭を垂れた。敗れていた。
わずかに目だけを上げ、キアロコを見た。
そこに責める色はなかった。あるのは、疲れだけだった。
「いいんだ……」
そう言った。
「持っていけ。なぜお前がこんなことをしたのか、わしには分からんが……わしらはただの他人だ。負い目に思うことはない。もう充分やってくれた。行け」
そしてまた、敗れたように頭を垂れた。
キアロコは何も言わなかった。
ただ、アタッシュケースに目を落とした。
病院にいるあの子のことを考えていた。誓いのことを。
そして、動くためにいつも血を要求する、この腐った世界のことを。
ケースを蹴った。
乾いた音が部屋中に響いた。ケースは宙を飛び、壁に叩きつけられた。
「要らない」
顔を上げた。視線をラフィクスに据える。
「それと、この人たちを放したほうがいい」
沈黙。
「でないと、ここで――全員死ぬ」
沈黙は、笑い声で破れた。
「俺たちを脅してんのか、ガキが」
ラフィクスは、ありもしない涙を目尻から拭う仕草をした。まだ笑っていた。
「もう払ったはずだぜ」
笑みが、ゆっくり消えていった。蝋燭が消えるように。
「それにな……下でうちの連中を殺ったのがお前なら……その前に殺しておくべきだったな」
ラフィクスが銃を抜いた。
まっすぐ、娘の頭に向けた。
別のマフィアもそれに倣い、キアロコに狙いを定めた。
時間が凍りついた。
文字通りに。宇宙が息を止めたかのように。
張りつめたマフィアたち。引き金にかかった指。
声を出せず、音のない涙を流し、肩を震わせる娘。
膝をついたまま、血と埃で汚れた髭に涙を伝わせる父親。
「やめてくれ! 頼む……」
老人が床から懇願した。
「署名する。だがあの子らには手を出さんでくれ。行かせてやってくれ! あの子らは何も関係ない!」
キアロコは動かなかった。
影が、彼のまわりで震えていた。濃く、暗く――合図を待つように。
そして、すべてが終わりうるその一秒に――
何かが、目を覚ました。
*
バン。バン。バン。
ラフィクスが怒りのまま引き金を引いた。三発、続けざまに。
だが、その手が勝手に動いた。左へ。
見えない何かに押しのけられたかのように。
ラフィクスは自分の腕を見た。理解できないという顔で。口を開け、眉を寄せて。
何が起きたのか、分かっていなかった。
だが、もう遅かった。
一発が、ガス管をかすめた。
ドォン!
火花ひとつで充分だった。
炎が、飢えた獣のように解き放たれた。
壁を駆け上がっていく。まるで炎までもが、すべてを終わらせたがっているかのように。
数秒で空気が黒煙に満ちた。熱が、平手打ちのように襲いかかってきた。
老人を掴んでいた男が、キアロコに向けて撃ちはじめた。
弾はでたらめに飛んだ。煙の中の、盲滅法の射撃。
だがキアロコは、その一発ずつを避けていった。
影が彼に語りかけていた。指し示していた。見せていた。
その足が地面に触れているのは、一秒とない。
一番近い男へ、一気に踏み込んだ。
腹に拳を叩き込む。息が抜けて、男は崩れ落ちた。
倒れた先は、縛られた老人の目の前だった。
老人は何もできなかった。ただ、それを見ていた。
もう一人へ、素早く。頭に蹴り、顎にもう一発。倒れた。
そのあいだ、ラフィクスは狂ったようにキアロコへ撃ちはじめていた。炎がすべてを飲み込んでいくなかで。
キアロコは動けるかぎりの速さで動いた。
そして一秒だけ、ラフィクスを見た。
ラフィクスは硬直していた。
炎に照らされた顔。見開いた目。銃口がひとりでに下がっていく。
一瞬、そこにあったのは純粋な恐怖だけだった。
それから、どうにか反応した。もう一度銃を上げ、裂けた声で叫んだ。
「死ねぇっ、クソガキ!」
「この人たちを放せと言った……」
キアロコが呟いた。
ラフィクスの背後に現れていた。
乾いた一撃が、首に入った。
ラフィクスは燃えるガス管へ吹き飛んだ。
短い、甲高い悲鳴。
そのあと、部屋全体を揺らす爆発が来た。
残っていたマフィアたちは、命惜しさに走り出した。互いにつまずきながら、撃つのをやめて。
一人は肩に火がついているのにも気づかず、そのまま走り続けた。
別の一人は、少しでも早く下りるために、階段から身を投げた。
純然たる影。
炎。
銃声。
悲鳴。
絶望が、その場を支配した。
静寂。
死。
*
キアロコは一秒も無駄にしなかった。
椅子まで走り、震える手で、それでも素早く娘の縄を切った。
口のテープは、慎重に剥がした。
娘は、生まれて初めてのように息を吸った。悲鳴に近い、大きな喘ぎだった。
この少年が誰なのかは分からない。
それでも、この人に大きな借りがあることだけは、分かっていた。
老人は床から解放された。影が、縄を糸のように断ち切ったのだ。
娘を腕に抱き上げ、胸に強く抱きしめて、二人は駆け下りた。
階段が足の下で軋んだ。
熱が、憎しみと飢えをもって二人を抱きしめてくる。
煙が目を、喉を刺した。
呼吸のひとつひとつが焼けた。
上のほうで、老人と娘が数歩先を行っていた。
キアロコは、上の階から身を躍らせて下りていた。
一段下りるごとに、炎が迫ってくるのが見えた。
老人が、一つ上の階でつまずいた。
娘が階段を転げ落ちた。
キアロコは下の踊り場でその音を聞き、上を見上げた。
「くそじじい……」
そう呟いた。傷つけるつもりはなかった。ただ、この瞬間に苛立っただけだった。
一息で階段を跳び上がった。
娘を腕に抱き上げる。柔らかく、それでいて確かに。今しがたやったことのすべてと不釣り合いな優しさで。
床にいる老人を見た。冷たく、読めない目で。
「行くぞ。もう時間だ」
老人はもう限界だった。
煙にむせ、身体を折り曲げ、両手で手すりにすがっていた。
割れた窓から通りのほうを見た。その顔が、さらに翳った。
サイレン。
警察。
消防。
青と赤の光が、向かいの建物の壁で跳ね返っていた。
「お前は行け……」
老人の声は、かすれてほとんど出ていなかった。
「誰にもお前を見られちゃならん。あの子を助けてやってくれ。病院へ連れていってくれ。わしのことは……気にするな」
キアロコは老人を見た。
炎がその目に映っていた。煙の中の、静かなふたつの熾火。
ガスの爆発は、次第に大きく、近くなっていた。建物が揺れはじめていた。
置いていきたくはなかった。
だが、自分に何もできないことも分かっていた。
警察はもう目の前だ。そして今、いちばん相手にしたくないのが、あの連中だった。
頷いた。
「またな」
【読者の皆さまへ ── 愛すべき"オソイ"の皆さまへ】
いつも本作をお読みくださり、そしてたくさんの愛と応援を
届けてくださって、本当にありがとうございます!
皆さまがこの物語を楽しんでくださっているということが、
私にとって何よりも大きな力となっています。
この冒険は、まだ始まったばかりです。
どうか新しい"オソイ"の仲間たちも、この旅にお誘いください!
共に、伝説の"アダリクス"を求めるこの旅を続けていきましょう。
これからも『我が第二の精霊年代記』を、
どうぞよろしくお願いいたします!
―― 著者:キアロコ・モチヅキ




