74 ハルコ、あなたをどうしたらいいの?
エレベーターは、七十五階から静かに下りていた。
サリコは、扉の上で次々と変わっていく光る数字を見つめていた。頭の中には、まだ父との会話が残っていた。画面に一時停止したキアロコの顔。そして、ソラの名前。長いため息をつく。
ポーン。
扉が開き、受付のフロアに出た。サリコが一歩、外へ踏み出す……
まさにその瞬間、誰かが山のような書類を両腕に抱えて、全速力で角を曲がってきた。つまずいて、頭から突っこんでくる。
ゴチンッ!
二人の頭が、正面からぶつかった。書類は驚いた鳩の群れのように宙を舞い、二人とも床に倒れこんだ。
「いたたたた! もう、痛いってば!」
おでこをさすりながら、もうひとりの少女が嘆いた。
「ここにエレベーターがあるの、忘れてた……」
「もう……何なの、いったい?」
床に座りこんだまま、頭に手をやって、サリコが言った。
「頭、痛い……」
書類が一枚、また一枚と、二人の周りに落ちていく。
少女はぱっと跳ね起きた。誰を倒したのかも見ないまま、目をぎゅっとつむって、何度も何度も頭を下げ始めた。
「すみません! すみません! わたしのミスです! 申し訳ありません、申し訳ありません!」
まるで、ただの同僚にぶつかったときのような謝り方だった。
それから、目を開けた。
最初に見えたのは、ハイヒールだった。よく知っている、ハイヒール。
目が、皿のように丸くなった。ゆっくりと、本当にゆっくりと、ハイヒールから目の前の人物の顔へ、視線を上げていく。
顔から、血の気が引いた。
「へ、陛……」
ゴツン!
サリコはもう立ち上がっていて、その頭に一発、げんこつを落としていた。
「ちょっと、ハルコ! なんで廊下を走ってるの? それはやめてって言ったでしょ!」
「いたっ、いたたた!」
ハルコは両手で頭を抱えた。
「ご、ごめんなさい、陛下!」
ゴツン!
同じところに、もう一発。
「だから、その呼び方はやめてってば!」
「ごめん、サリコさん……」
両目にちょこんと涙を浮かべて、ハルコが言った。
サリコはふんと鼻を鳴らし、服を整え始めた。スカートをはたき、ツインテールを直す。
「で、なんで走ってたの?」
「あ、上に書類を届けなきゃいけなくて、そのあと別のオフィスに書類を取りに行かなきゃいけないの」
ハルコは照れくさそうに笑いながら、首の後ろをかいた。
「えへへ……ほら、今日は仕事がいっぱいでさ」
「うん。でも、走る必要はないでしょ」
「うん、ちょっと急いでただけ。このエレベーターのこと、忘れてたんだ」
サリコは、ため息をついた。
「まあ、いいけど」
かがんで、床の書類を拾うのを手伝い始める。
「いいって、いいって、サリコさんはそんなことしなくていいから! わたしのせいなんだし!」
サリコは何も言わずに、横目でハルコを見た。
ハルコは、ぴたりと黙った。そして黙ったまま廊下の反対側まで行き、遠くまで飛んでいった紙を拾い始めた。
拾い終わると、サリコは手元の書類をまとめ、とんとんと二度そろえてから、ハルコに渡した。
「じゃあ、気をつけてね。またね、ハルコ」
「うん、分かった!」
サリコは背を向けて歩き出した。だが、一歩踏み出したかと思うと、ハルコが言いたかったことを思い出した。
「ねえ、サリコさん……ごめん、ちょっといい?」
「今度は何?」
一瞬だけ振り返って、サリコが言った。
ハルコは、書類をぎゅっと胸に抱えた。
「アンジーニのことなんだけど」
「うん、あの人がどうかした?」
「元気なのかなって。三人でまた一緒にいられるか分からないって言ってたから、ずっと心配で。何かあったの?」
サリコは、一瞬動きを止めた。それから、微笑んだ。
「ああ、そのこと。元気だよ。わたしたち二人と同じで、相変わらずきれいなまま。だから、心配しなくて大丈夫」
「ああ、よかったぁ!」
ハルコは、一気に息を吐いた。
「元気なら安心した。また三人で出かけられるの、楽しみにしてるね。気をつけて。もう引き止めないから。バイバイ!」
「うん。バイバイ」
歩きながら、サリコは手を上げた。
「それと、走るのやめなさいよ!」
背後で、ぱたぱたと速い足音がした……それが急に、ゆっくりとした、素直な足音に変わった。
*
外では、クダサイの空はまだ灰色だった。通りに、最初の明かりが灯り始めていた。
ビルの前で、黒い車が彼女を待っていた。ホロホがそのそばに立っていて、サリコが出てくるのを見ると、後部座席の扉を開けた。サリコが乗りこむと、ホロホはそっと扉を閉めた。
車が、走り出した。
サルダキの信号で、車が止まった。サリコは窓の外を見た。オフィスタワー、急ぎ足で仕事帰りの人々、明かりを灯して宙を横切っていく広告看板。手のひらに頬をのせる。
信号が、青に変わった。
車はいくつもの通りを抜け、サルダキのタワー群をあとにして、少しずつサンケッチへ入っていった。建物が低くなり、通りがにぎやかになっていく。
ホロホは、ピザ屋のひとつ手前の、隣の通りで車を止めた。
そこから、角が見えた。明かりの灯った大きな窓。トミー・ピザの看板。
サリコは、すぐには降りなかった。窓の外を見つめたまま、指で膝をとんとんと叩いていた。
そして少しずつ、その顔に笑みが浮かんだ。
何かを企んでいるかのように。




