72 救ったのは、ひとつの決断
キアロコは木の上で休みながら、物思いにふけっていた。
周りでは木の葉がやわらかく揺れ、枝のあいだから漏れる光が、小さなきらめきとなって白い髪に落ちていた。そこから見下ろす街は、別の場所のようだった。下では車がひっきりなしに行き交っていた。クラクション、エンジン音、角ごとに甲高く鳴るブレーキ。歩道を行き来する人々は、みんなそれぞれの世界に閉じこもり、誰も顔を上げなかった。
一匹の猫が、枝の一本一本を知り尽くした身のこなしで、幹を登ってきた。キアロコのいるところまで上がってくる。立ち止まった。瞳孔を細め、数秒のあいだ、じっと彼を見つめた……そして、そこにあってはならないものを見たかのように、怯えて飛び降りていった。
キアロコは、身じろぎひとつしなかった。
午後の日差しの下で、街は輝いていた。ビルの大きな窓が光を照り返し、そのあいだを、宙を漂う広告看板が横切っていく。迷子の風船のように。セール情報や笑顔を映しているのに、誰もそれを見ていなかった。
すべてが、穏やかだった。
彼の胸の中を、除いて。
内側に、静まらない何かがあった。圧迫感。はるか遠くから届くこだまのような、古い震え。彼の内なる影が、これといった理由もなく落ち着きをなくし、うごめいていた。姿を見る前に、風の中の匂いを嗅ぎつけた獣のように。
キアロコは眉をひそめ、胸に手を当てた。
(なんだ、これは……?)
下の人混みの中を、ひとりの男が落ち着いた足取りで歩いていた。
一見して、目を引くところは何もない。質素な服。手首には印の刻まれた腕輪をつけ、鞄を提げている。足取りはゆったりとして急がず、まなざしは淡々としていた。何百人もの中の、ただのひとり。
だが、男がちょうど木の真下を通ったとき、キアロコはその重さを感じた。
体で感じるものではなかった。人間のものでもなかった。
霊的なものだった。
見知らぬ男がそばを通り過ぎた瞬間、内なる影がいきなり目を覚ましたかのようだった。すぐさま、まっすぐに結ばれるつながり。それが、悪寒のように背中を駆け抜けた。
断片だ。
キアロコは息を殺して動きを止め、目で男を追った。
そして、来たときと同じように、その感覚は消えていった。男は人混みの中を歩き続けた……まるで、最初からそこにいなかったかのように。
数分が過ぎた。いや、数秒だったのかもしれない。キアロコには分からなかった。街の騒音が遠のき、まるで周りのすべてが止まってしまったかのようだった。
ドォン――ドォン!
轟音が、街じゅうに響き渡った。地面が揺れた。木の葉が震え、近くの屋根から鳥の群れがいっせいに飛び立った。
キアロコは枝の上で身を起こし、音の出どころを目で探した。
そして、木の上から消えた。
次の瞬間、彼はある通りを歩いていた。同じ一点を見上げたまま立ちすくむ人々のあいだを。それからまた消え、次の通りに現れた。さっきより近くに。誰も気づかなかった。みんな、上を見ていた。
そしてキアロコが見たのは、ただの事故ではなかった。
遠くで、クレーンが崩れ落ちようとしていた。
金属が、傷ついた獣のような恐ろしい悲鳴を上げてねじれていく。ケーブルが次々と弾け、鞭のように宙を打った。巨大な鉄の腕が、どんどん速度を増して傾いていく。人であふれた大通りの真上へ。
悲鳴。
混乱。
人々があらゆる方向へ逃げまどい、押し合い、つまずいていた。一台の車が急ブレーキをかけ、そこへ別の車が突っこんだ。誰かが倒れ、別の誰かがそれを強引に引き起こした。クレーンの腕の陰がアスファルトの上で大きくなっていき、逃げきれない人々を覆っていった。
(やめろ!)
キアロコは、少しでも早くそこへ着こうと構えを取った。足元で、影がざわめいた。
だが、悲劇が現実になる前に……奇跡が起きた。
ガゴンッ! ガゴンッ! ガゴンッ!
岩の柱が、アスファルトを突き破って激しくせり上がった。まるでガラスのように、路面を砕きながら。太く、揺るぎない柱が次々とそびえ立ち、衝突の寸前で鉄の腕を受け止めた。金属が岩にぶつかる音が、巨大な鐘のように鳴り響いた。
そして、何も起きなかった。
微動だにしない。完璧に。
クレーンは、宙に吊られたまま止まっていた。まるで時が、一枚の写真の中に閉じこめてしまったかのように。
大通りの上を、土煙がゆっくりと漂っていた。誰も走らない。誰も叫ばない。下にいた人々は震えながら顔を上げ、自分がまだ生きていることを信じられずにいた。
静寂が、その場を支配した。
誰にも、分からなかった。
それから、鈍い唸りとともに、岩の柱が下がり始めた。少しずつ、制御されながら、また地中へと沈んでいく。そして最後には、誰も押しつぶすことなく、クレーンの腕を地面に横たえた。残ったのは、アスファルトのひび割れと、ゆっくりと落ち着いていく土煙だけだった。
少しずつ、ざわめきが戻ってきた。誰かが泣き出した。何人かは携帯を取り出し、何を撮っているのかもよく分からないまま撮影していた。遠くで、サイレンが鳴り始めた。
キアロコは人混みの中を進んでいった。肩をかわし、人々のあいだをすり抜けていく。誰も、彼に目を留めなかった。
そして、見つけた。
あの男だ。
数メートル先で、男は膝をつき、両方の手のひらを地面についていた。その手の周りで、アスファルトがひび割れている。呼吸は落ち着いていた。その顔は……少しも乱れていなかった。
男は、ちらりと周りを見回した。拍手や称賛を求めているのではなかった。ただ、みんなが無事かどうかを確かめていた。
それから、自分の務めは終わったとでもいうように、立ち上がった。膝の埃を払い、鞄を拾い上げる。
ひと言も、発さずに。
振り返ることもなく。
男は人混みの中にまぎれ、路地の奥へと消えていった。あとに残ったのは、岩と……謎だけだった。
キアロコは、大通りの真ん中でじっと立ち尽くしていた。周りを人々が通り過ぎていく。胸の中の影が、最後にもう一度うごめき、それから静まった。
拳を握りしめる。
あの男は、偶然じゃない。救ったのは、運命なんかじゃない。
救ったのは、ひとつの決断だ。
そしてその決断には……ひとつの物語があった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
崩れ落ちるクレーン。
大地から現れた、岩の柱。
そして、何も言わずに去っていった、ひとりの男。
彼は、いったい何者なのか。
なぜ、名乗りもせずに人々を救ったのか。
その答えは、もう少しだけ先に。




