70 声を運んだ風
夜は、過ぎ去っていた。
空が灰色に染まり始めたころ、ソラは静かに起き上がった。キアロコは、まだ眠っていた。その体を包む影が、一瞬、静まったように見えた。彼女が出ていくことを、分かっているかのように。
出ていく前に、ソラはサイクダ家のビルのそばを飛んでいった。高いところから窓をのぞくと、ベッドで眠るサリコが見えた。毛布が、上に放り出されている。下の、まだ誰もいない通りでは、勇作が夜明けの鍛錬の散歩に出かけるところだった。ソラは上から彼を見ていた。彼に気づかれることなく。
別れを告げたら、止められるのは分かっていた。
さよならは、言わなかった。
ただ、やさしいまなざしを残した。誰にも聞こえない囁きのように。そして、去っていった。
小さなリュックを背負い、迷いのない足取りだった。どこへ向かっているのか、はっきりとは分からなかった。けれど、内側の何かが、彼女を導いていた。
街のコンクリートは、すぐに遠ざかった。車の音が少しずつ消えていき、やがて、別の音だけが残った。もっとずっと古い音。風の囁きだった。
絶えず吹くそよ風が、頬をなでていく。まるで世界そのものが語りかけてくるように、やさしく、はっきりと。
『おいで』
そして、もう一度。
『おいで』
そして、もう一度。
『おいで』
獲物を惑わす声のように。
誰もいない通りを、忘れられた野原を、さびしい丘を越えていく。まだ夜が明けきらないうちに、薄い霧に覆われた森にたどり着いた。
この世のものとは思えない場所だった。すべてが静まり返り、まるでそこだけ時が止まっているかのようだった。
木々のあいだに降り立ち、歩き始める。どちらを向いても、幹と霧しかなかった。やがて森の中心に、巨大な木が現れた。千の命を生きてきた者のような威厳をたたえて、そびえ立っていた。
その根のあいだに、穴が開いていた。暗く、深い。けれど、そこから風が吹いていた。温かく……そして、生きている風が。
ソラは、深く考えなかった。その中へ、すべりこんだ。
光はなかった。根でできた道が、大地の奥深くへと下っているだけだった。風は変わらずそこにあり、最後まで彼女を導いていた。
進むにつれて、壁が光り始めた。いくつもの印が、純粋な光で刻まれたように宙に灯り、彼女の周りで舞い始めた。彼女の訪れに、気づいたかのように。
*
気づくと、ソラは底なしの深淵の上に浮かぶ、透明な台座の中心に立っていた。壁は雲の中に溶けていき、出口はなかった。風だけ。どこもかしこも、風だけだった。
そのとき、それが聞こえた。耳ではなく、深い思考のように。魂へ直接届く囁きとして。少女の声だった。風そのものから聞こえてくるようだった。
『やっと来たのね』
『風は、あなたの魂の秘密を運んでいる……聞く覚悟は、できてるかしら?』
「ん……誰かいるの?」
あたりを見回しながら、ソラが言った。
「ここ、どこ?」
誰の姿も見えなかった。そして、何かが答えるより先に、風が彼女を激しく後ろへ押し飛ばした。
*
第一の試練 ―― 風の残響の間
見えない突風が、彼女の周りで渦を巻き始めた。肌は痛まなかった。突き抜けていくのだ。魂を、引き裂きながら。
そして、残響が現れた。光景、記憶、罪の意識。
最初は、彼女自身だった。通りにひとりきりの少女。声もなく、世界から見えない存在。
ソラは、忘れたと思っていたことを思い出していた。ごみの中の段ボール箱で眠る自分。ひとりで通りを歩く自分。そばを通り過ぎていく人々は、誰も彼女を見ようとしなかった。
両手で頭を抱えた。
「いや……こんなの見たくない。どうして、こんなものを見せるの? 見たくない!」
膝をつき、うつむいたまま、両手で頭を抱える。
「やめて……やめてよ!」
声が、また語りかけた。
『それが、あなたよ。これからも、ずっとね』
「ちがう! わたしはそんなのじゃない。もう、そんなのじゃない。二度と、あんなふうには戻らない」
『いいえ、そうよ。それが、あなた。分からないの? あなたは今も、ずっと同じ場所にいるのよ』
「ちがうってば! わたしは、そんなのじゃない! いやぁぁぁっ!」
突風は、どんどん速く彼女を打ちつけた。ソラは膝をつき、頭を抱えたまま、動けずにいた。
「わたしは、そんなのじゃない……二度と、あんなふうには戻らない」
そして、少しずつ、立ち上がり始めた。
『自分であることからは、逃げられないわ。それが、あなたの道よ』
けれど、突風は少しずつ、彼女に触れなくなっていった。
「ちがう。二度と、あんなふうには戻らない。わたしはもう、あのころの子じゃない」
すっかり立ち上がった。突風は彼女に触れなくなり、消えていった。
一歩、踏み出す。そして、もう一歩。
*
次に現れたのは、キアロコだった。彼女の前に立っている。目を開けた。
勇敢で、光に満ちていて……けれど、怯えていた。
ソラは彼のほうへ歩いていった。けれど、いくら歩いても、たどり着けない。彼はずっとそこにいた。同じ距離のまま。
「どうして、わたしを助けたの?」
ソラが聞いた。
キアロコは、さげすむように彼女を見た。
「……助ける価値なんて、なかった」
「そんなの、うそ!」
ソラが叫んだ。
「お前は、俺にとって厄介ごとでしかなかった」
キアロコが言った。
ソラは歩き続けた。けれど、どうしてもたどり着けなかった。
「待って! 行かないで!」
触れようと、手を伸ばしながら言った。
けれど、風は別の光景で答えた。
彼女自身。キアロコに背を向けて、遠ざかっていく姿。
声が、また語りかけた。
『あの人は、あなたを信じた……なのに、あなたは彼のそばから逃げたのよ』
ソラは膝をついた。涙が、刃のように熱く焼けついた。
けれど、幻のあいだで、彼女は思い出した。二人の絆は、どんな残響よりも強いのだと。
「ずっと、そばにいるからな」
抱きしめながら、キアロコはそう言ってくれた。
「絶対に、忘れないからな」
ピザを食べながら、笑ってそう言ってくれた。
兄の言葉が、胸のいちばん深いところで響いた。
そしてソラは叫んだ。声ではなく、魂で。
「兄さぁぁぁぁぁん!」
風が、咆哮のように彼女の胸から爆ぜた。
幻は消え去った。虚空の壁が、砕け散った。
そして残響は、彼女の前に屈した。
ソラは息を切らし、胸を大きく上下させていた。また、同じ場所に戻っていた。ひとりきりで立っている。感じられるのは風だけの、透明な虚空の中に。
【サリコより】
ここまで読んでくれて、ありがとう!
ちょっと、ソラ! どこ行っちゃったの!? 朝起きたら、もういないんだけど!
……もう。ひとりで何でも抱えこむんだから。
みんなも、ソラのこと、一緒に見守っててね!
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