69 影の印
雨が、街に降り注いでいた。遠くで雷が鳴り、車の音やクラクション、そしてどこかで響く救急車のサイレンと混じり合っていた。
キアロコは、そこにいた。あるビルの屋上の縁に仰向けに寝そべり、空を見上げている。雨粒が一滴、また一滴と顔に、体に落ちてくる。それを払おうともしなかった。稲妻が光るたびに一瞬だけ顔が照らされ、そしてまた、闇がそれを覆った。
影は、彼と共にあった。降りしきる雨の静かなリズムに合わせて、彼の周りをゆっくりと漂っている。
(どうやら、隠れて生きてきたのは無駄だったらしい)
キアロコは思った。
(今までずっと……結局、いちばん近づきたくなかった連中と関わることになった。情けないのは、もう引き返すには遅すぎるってことだ)
顔の前に手をかざし、それを見つめる。影が蛇のように体から離れ、指のあいだに絡みついていった。
数メートル先の別のビルの避雷針に、雷が落ちた。一瞬、光がすべてを覆い尽くした。
(もう、隠れる理由もない。それに、これからもっとひどくなるのは分かってる。あの戦いから目を覚ましてから、ずっと変な感じがする……まるで、別人になったみたいに)
眉をひそめる。
(あの印は、何を意味してたんだ? それとも、何かの言葉だったのか? 試してみたい。今の俺に、何ができるのか見てみたい)
影が、意思を持ったように彼の周りで動き出した。
空が、いきなり光った。
雨を引き裂く白い炸裂とともに、稲妻がまっすぐ彼へ落ちてきた。
キアロコは、動かなかった。
稲妻が触れる寸前、影がビルの縁から、そして彼自身の体から飛び出し、彼の上に立ちのぼって、黒い外套のように覆いかぶさった。稲妻は轟音とともに影に叩きつけられ、ビル全体を震わせた。光は火花となって砕け、宙で消えていった。煙が、雨に混じった。
それから影は、何事もなかったかのように、ゆっくりと開いた。
キアロコは、まだそこにいた。縁に寝そべったまま、顔に水が流れている。火傷ひとつなかった。
顔を左に向けた。
そこに、影がいた。生きているように、彼の隣に。
キアロコは、ただ微笑んだ。
「この感じは、何かがもう動き出したって言ってる」
キアロコは呟いた。
「それもきっと、思ってるより近くで」
空へ手を上げると、影も腕と一緒に昇っていった。黒い煙のように、上へと流れていく。稲妻が、彼の体と、それを包む美しい影を照らし出した。
深く息を吸う。それから、手のひらを見つめた。
(風。炎。そして、水。この街にもたらしたのは、混乱だけだ。つまり、もし断片がもうここにあるなら、ほかの奴らがそれを求めてこの星に来るのも時間の問題だ。生き延びられるだけ強くあればいいんだが)
ゆっくりと、腕を下ろす。スローモーションのように。雷は遠くで鳴っているのに、すぐ近くで聞こえた。
(大事なのは、もう自分が何者なのかも、この力も、隠さなくていいってことだ。今の俺の務めは、これを思いどおりに操れるようになることだ)
ひとつの光景が、目の前をよぎった。炎の少年の胸に手を差し入れたアンジーニ。そして、消えていく炎。
「もう始まった戦争のためにな」
低い声で、キアロコは言った。
ゆっくりと身を起こす。影まで、立ち上がるのを手伝っていた。キアロコは、ただそれを見つめていた。まるで影のほうが、もう彼のことをよく分かっているかのように。そして彼も、影のことを。影は穏やかに、彼の周りで脈打っていた。
「さて……帰るか。明日は明日の風が吹く」
雨は、まだ降りかかっていた。遠くでサイレンが聞こえる。この高さからだと、車は雨の中を動いていく小さな光にしか見えなかった。
深く息を吸う。
「ソラが無事だといいんだが。難しいのは分かってる……でも、あいつのことまで、しくじりたくない」
ビルの縁へ一歩踏み出し、宙に影の跡を残して、消えた。
遠くの別のビルに、現れる。二歩進んで、また消えた。
風車の上に、現れる。さらに二歩。
そして、自分の家の前に、歩きながら現れた。
玄関で靴を脱ぎ、ずぶ濡れの服を脱いだ。玄関の収納からタオルを取り、髪を拭きながら中へ入る。家の中は、とても静かだった。何もかも、いつもどおりに見えた。
階段を上がる。ソラを探して、その部屋へ向かった。
ソラは、そこにいた。ベッドで眠っていた。
キアロコは、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと扉を閉めた。
浴室でシャワーを浴び、それからベッドに倒れこんだ。
*
扉の向こうで、ソラが目を開けた。
起きていた。枕を見つめている。血がついていた。自分が吐いた血。まだ、口元を汚している。
深く息を吸って、ベッドから起き上がった。また咳きこむと、また血が出た。咳をしながら浴室まで歩き、口を拭った。
鏡の中の自分を見る。
何が起きているのか、分からなかった。起きたことへの悔しさ、怒り、頭から離れないアンジーニの姿……すべてが、内側から彼女を蝕んでいた。
拳を握りしめる。
(もっと強くならなきゃ。ここで何もしないでいるなんて、できない)
また咳きこんだ。手を見る。咳をするたびに、口から血が出て、指を汚していた。
ベッドに戻って、横になる。深く息をする。けれど、何かが彼女を眠らせなかった。
外では、窓に向かって、風が激しく吹きつけていた。




