68 私たちは、サイクダ家の者だ
風が窓から吹きこみ、行く手のものすべてを揺らしていた。まるで、事務所の張りつめた空気をごまかそうとするかのように。みんな、茶をすすりながら、黙って食べていた。
外では、少しずつ雨が降り始めた。最初は、ガラスに当たるまばらな雨粒。それから、静けさを満たしていくやわらかなざわめき。
「アンジーニは、命令で動いているわけではない」
寿司を口に運びながら、勇作が言った。
「ここにいるとしたら……自分の意思でだ」
「だからこそ、余計に危ないのよ」
サリコが言った。
「アンジーニは、簡単に従わせられる相手じゃない」
勇作は続けた。
「命令を受けるような人間でもない。なぜあの戦いに入ってきたのかも、分からない」
「わたし、見たよ。マユモの胸から、何か光るものを取り出したの」
ソラが言った。
「炎でできた赤い心臓みたいに、脈打ってた。それで、それをしまったの」
「アンジーニがあの少年から断片を抜き取ったなら」
キアロコが言った。
「あそこにいたのは、偶然じゃない。何をしに来たのか、最初から分かってたんだ」
「それに、わたしが攻撃したら、お礼を言われたの!」
ソラが言った。
「おかげで、殺す前にわたしがどの断片を持ってるか分かったって。あのときの顔、見せたかったよ! サリコがなんで素敵な人だなんて言うのか、分かんない」
「まあ……まだ、何を考えてるのか分からないし」
サリコが言った。
「だから、責められないわよ」
そして、ごまかすように、茶を長々とすすった。
「問題は、そこだ」
勇作が言った。
「あの子の目的は何なのか。そして、どうやってあの力を手に入れたのか」
「誰かが、制御するのを手伝ったはずだ」
おにぎりをもうひとつ取ってタレにつけながら、キアロコが言った。
勇作は画面に目を向けたまま、茶をひと口飲んだ。
「ああ、その可能性がいちばん高い。だが、断片の制御が保持者ごとに違うのかどうかも、分かっていない」
「違うって、どういう意味?」
ソラが聞いた。
「マユモは、制御できなくて命を落としたのに……」
うつむく。
「わたしだって、同じだった。キアロコがいなかったら、わたし、もう死んでた。街や人たちがどうなってたかも、分からない」
「あくまで、私の考えだ」
勇作が言った。
「今のところ、確かなことは分からない。だから、アンジーニがどうやってあの力を制御できたのかも分からない。断片が保持者ごとに違う反応をするのかどうかも」
キアロコは、勇作のほうへ向き直った。
「炎の少年は、俺に『久しぶりだな』って言った。それから、アンジーニも同じことを言った」
「それって、どういう意味?」
ソラが聞いた。
勇作は腕を組んだ。
「この戦争は……何千年も続いている。もし三つの違う声が、君を知っているのなら……」
間を置く。
「君は、キアロコ……かつて、この戦争にいたんだ」
「そうよ、キアロコ」
笑顔で、サリコが言った。
「たぶん、覚えてないだけ。それだけのことよ」
「覚えてない?」
キアロコが言った。
「俺が何歳に見える?」
そう言って、オモリをひと口飲んだ。
「まだ、はっきりとは分からない」
勇作が言った。
「情報が足りなさすぎる。今は、待つしかない」
キアロコは、手に持っていたおにぎりを食べるのをやめた。
拳を握りしめる。
「答えが必要だ……今すぐ」
「ああ。だが、簡単なことじゃない、キアロコ」
勇作が言った。
「アンジーニとこのことを話そうとしても……あの子にとっても、きっと初めてのことだ。いきなり押しかけて、全部を突きつけるわけにはいかない」
サリコはテーブルまで歩き、皿にエビを取って食べ始めた。
「そうよ」
サリコが言った。
「お姉ちゃんにとっても、きっと全部つらかったはず。キアロコはもう長いあいだ、それを内側に抱えて生きてきたから、普通に受け止められるのかもしれない。でも、誰もがこういう生き方をする準備ができてるわけじゃないのよ、キアロコ」
ソラは、サリコの言葉を聞きながら、深く息を吸った。
何も言わなかった。
でも、心のどこかで分かっていた。自分の命が危険にさらされていることを。そしてそれが、軽く考えていいことではないことを。
外では、雨がますます強く窓を打ちつけていた。
「それに、アンジーニを相手にするのは、簡単じゃない」
深く息をついて、勇作が言った。
「あの子が自分から話そうと思うまで、待ったほうがいい」
「でも、家族なんだろ」
壁の角にもたれながら、キアロコが言った。
「なんで、そんなに難しいんだ?」
サリコは父を見た。
「あのね、キアロコ……全部、すごく複雑なの」
勇作とサリコは、黙って顔を見合わせた。口にする前に、ひと言ひと言を量っているかのように。
外で、雷が轟いた。
「ソラ、キアロコ」
勇作が言った。
「これで、私たちのあいだが何も変わらないことを願っている」
サリコは、まだ父を見つめていた。そして、父がもう話すと決めたことを悟った。
ソラとキアロコは、待つように勇作を見ていた。
「分かった」
二人が、同時に言った。
勇作は、最後にもう一度サリコを見た。茶をひと口すすり、カップをゆっくりとテーブルに置く。磁器が、木に当たって音を立てた。
それから、画面に触れた。
アンジーニの映像が消え、代わりに一枚の写真が開いた。公式の写真だった。新聞に載るような一枚。旗の前に立つ、濃い色のスーツの男。穏やかで、揺るぎない表情をしている。その隣には、上品なドレスを着た青い髪の少女が、カメラに向かって微笑んでいた。そして、同じ写真の少し後ろには、勇作。それに、ツインテールのサリコ。
稲妻が一瞬、事務所を照らし、画面の写真がきらめいた。
「アンジーニは、サイクダ家の者だ」
一秒遅れて、雷鳴が届いた。窓ガラスが震えるほどの激しさだった。
キアロコとソラは、何も言えなかった。凍りついたように動けない。ソラは、寿司を口に運ぶ途中で、手を止めていた。
勇作が、また口を開いた。
「君たちの考えていることは分かる。だが、本当のことだ。サイクダ・アンジーニは、大統領の娘だ」
写真のスーツの男を指さす。
「サイクダ優」
雨が、窓を激しく叩いていた。
サリコは深く息を吸い、茶をひと口すすった。落ち着いた声を出そうとした。
「わたしの名前は、サイクダ・サリコ。アンジーニのいとこよ」
ソラは、目をぱちぱちさせた。
「待って……じゃあ、叔母さんと姪じゃないの? いとこ同士なの?」
サリコはうつむいて首の後ろに手をやり、頭の後ろに答えを探すみたいに、かりかりとかいた。
「えっと……興奮しすぎて、自分が何を言ったのか気づかなかったの」
勇作は、横目でサリコを見た。
「私が訂正するつもりだったんだが……サリコは、アンジーニを見るといつもこうなんだ」
それから、またキアロコとソラを見た。声が、再び真剣になる。
「そして私は、サイクダ勇作。サイクダ優の弟だ」
もう一度、稲妻が空を走った。
「今までずっと……」
声を詰まらせて、キアロコが言った。
「それで、今さら言うのか?」
拳で壁を殴る。コンクリートがきしみ、殴ったところに小さな穴が空いた。
勇作とサリコは、一瞬びくりとした。それから、落ち着きを取り戻した。
「すまない、キアロコ。話すつもりだったんだ……」
「いつ?」
苛立った声で、キアロコが遮った。
父が答える前に、サリコが急いで口を開いた。
「全部、あっという間だったの。話せるような時間も、状況もなかった。それに、迷惑をかけたくなかったの。隠れて暮らしてるキアロコを、家の警護の網に巻きこみたくなかった」
「そうなんだ、キアロコ、ソラ」
勇作が言った。
「ただ、君たちに家にいるように感じてほしかった。友人として見てほしかった。そして今も、そうであってほしいと願っている」
カップを取り、茶をひと口すする。
キアロコは皿を手にしたまま、何も言わずに、すべてを聞いていた。
外では、雷が鳴り続けていた。
そのとき、ものすごい音がした。
全員が、ソラのいるほうへ顔を向けた。
テーブルが、真っ二つに割れていた。皿も、寿司も、エビも、二つに割れた木の板と一緒に、床に散らばっている。
サリコと勇作とキアロコは、身構えた。だが、ソラの顔はよく見えなかった。うつむいていて、髪が顔を隠していたのだ。
「何事だ……?」
ソラを見つめて、勇作が言った。
「断片のせい……?」
サリコが囁いた。
「目が見えない」
キアロコが警告した。
ソラは、深く息を吸った。
「アンジーニ……アンジーニ……全部アンジーニ」
拳を握りしめて、ソラが言った。
「あの人は、わたしの上を行った。どうやったのかは分からない。でも、ここでじっとしてそれを確かめるつもりもない」
「ソラ……大丈夫?」
サリコが聞いた。
ソラは答えなかった。バルコニーまで歩いていく。雨が降りかかり、髪も服もずぶ濡れになっていく。ほかのみんなは、中からそれを見ていた。
ソラは、わずかに振り返った。
「テーブルのこと、ごめんなさい……陛下」
そして、跳んだ。風がソラを持ち上げ、雨の中を飛び去っていった。
サリコはバルコニーへ駆け出そうとしたが、勇作がその腕をつかんで止めた。
「行かせてやれ、サリコ」
「でも、外は雨よ! 大丈夫そうじゃなかった」
「あの子は大丈夫だ。ただ、受け止める時間が必要なだけだ」
バルコニーのほうを見ながら、勇作が言った。外では、雨がますます強く降っていた。
ソラの言葉が、二人の胸をざわつかせていた。陛下。二人とも、何も変わらないことを願っていた。
サリコは深く息を吸った。
「ごめんね、キアロコ。そんなつもりじゃなかったの。全部知った今、これからどうするの?」
わずかに、キアロコのほうへ顔を向ける。
もう、いなかった。
カーテンは、外の風と雨に揺れ続けていた。
サリコと勇作は、事務所に二人きりで残された。嵐の湿った空気を吸いながら、窓から街を見つめていた。
友人たちが出ていった、あの同じ窓から。




