67 影を傷つけた、姉
事務所は、また少しずつ、いつもの空気に戻りつつあった。
ハルコの訪問で、勇作とサリコがほとんど見せることのない一面がのぞいた。どうやら二人は、家族のほかの者たちとはまったく違う受け止め方をしているらしい。もっと素朴で、もっと普通で、あんなふうに呼ばれることも、あんなふうに扱われることも、まったく好きではなかった。
ソラはオモリをひと口飲んで、サリコを見た。
「わたしも一緒に行きたい」
ソラが言った。
「ハルコとも友だちになりたい! そうしたら、友だちがもっと増えるもん!」
「もちろんよ、ソラ!」
サリコが言った。
「そうすれば、女の子っぽいことをもっといろいろ覚えられるしね。四人で出かけられたら最高! メイクして、髪をセットして、買い物して……」
ひと言ごとに、ソラの目が輝いた。女の子っぽいこと。
「すっごく楽しそう! もちろん行きたい! 四人で行こう!」
トレイから寿司をつまみながら、ソラが言った。本当は、ハルコの言う「三人」が誰のことなのか、分かっていなかったけれど。
「ハルコが言ってたのは、アンジーニのことよ」
茶を注ぎにテーブルへ歩きながら、サリコが言った。
ソラは、むせた。
寿司が喉に詰まった。涙目になりながら拳で胸を叩き、ようやく飲みこむ。ゆっくりと息を整えて、サリコを見た。
「……誰?」
「うん、わたしたち三人で、いつもそういうことをしに出かけるの」
何でもないことのように、サリコが説明した。
「ハルコはすごく礼儀正しくて、いつもああやって、ひざまずいちゃうのよ」
ソラはうつむいた。
「もう行きたくない」
ソラが言った。
「あの人、キアロコを殺しかけたんだよ。わたしたちのことも、殺すつもりだったと思う。それに……そんなの、受け入れられない」
拳を握りしめる。
勇作の隣にいたキアロコは、机からオモリを取って、テーブルのほうへ歩いてきた。
「分かるよ、ソラ」
両手を合わせて、サリコが言った。
「でも、アンジーニはすごく素敵なの。会ってみたら、どんなに魅力的か分かるから」
「で、アンジーニって誰!?」
ソラとキアロコが、同時に叫んだ。
名前は知っていた。だが、何者なのかは知らなかった。
「えっと、だから言ってるでしょ……」
サリコは、唇に指を当てた。
そして、このうえなくうれしそうに、片足を後ろに上げて手をかざした。写真に写る女の子のように。
「アンジーニは、わたしのお姉ちゃんなの!」
一瞬、事務所から風が消えたようだった。カーテンが、ぴたりと止まった。
「えっ? お姉ちゃん?」
驚いて、ソラが言った。
「わたしたちみんなを殺しかけた、あの人が?」
キアロコは何も言わなかった。サリコの口からその言葉が出たのを聞いて、固まっていた。
二人は、勇作のほうへ顔を向けた。勇作はすべてを聞いていた。そして今、手で顔を覆いながら、ゆっくりとうつむいていた。
勇作は、サリコへ視線を上げた。サリコは急に、自分が言ったことに居心地が悪そうになっていた。
「こら、サリコ。ちゃんとしなさい」
「あ、えっと……つまりね」
サリコが言い直した。
「アンジーニは、わたしの年上の姪なの。姪だけど、お姉ちゃんみたいな感じ。だから、お姉ちゃんって呼んでるの」
そして、それですべて片づいたとでもいうように、にっこりした。
「どっちでも同じだ」
キアロコが言った。
「俺たちをみんな殺しかけた。それに、あの少年を、金でも払われたみたいに殺した」
張りつめた空気が、事務所じゅうに満ちていた。風がまたカーテンを揺らしたが、誰も気づかなかった。
「じゃあ、きっとそれで、わたしたちを殺さなかったんだね」
エビを口に運びながら、ソラが言った。
「まあ、それはまだ、はっきりしないけどな」
キアロコが言った。
「わたしは、はっきり分かる」
キアロコを見て、サリコが言った。
「お姉ちゃんは、絶対にわたしを傷つけたりしない」
「なるほどね」
オモリをひと口飲んで、ソラが言った。
「だからあの人、わたしたちのほうに来たとき、わたしたち二人のどっちかを知ってるみたいな目をしてたんだ。それで、帰っていった。サリコのこと、分かったんだね」
キアロコは、オモリをテーブルに置いた。
「二人とも、ずっとアンジーニのことを知ってて、俺たちに隠してたのか?」
キアロコが言った。
「それじゃ、信用できない」
「いや、待ってくれ、そうじゃない」
すぐに、勇作が言った。
「私たちも、たった今それを知ったばかりなんだ。だから、あれが彼女だとは、信じられない」
「本当よ、ソラ、キアロコ」
サリコが言った。
「お姉ちゃんも断片を持ってたなんて、何も知らなかったの。学校で見たとき、お姉ちゃんだなんて信じられなかった。どうやってあんな力を手に入れたのか、今でもずっと考えてる」
キアロコは深く息を吸った。顔の険しさが、少しずつゆるんでいく。
「すまない。あんなこと、言うつもりじゃなかった。考えなしに口に出た」
「いいんだ、キアロコ」
勇作が言った。
「君の気持ちも、これがどれほど歯がゆいことかも、分かるよ」
「うん。でも、キアロコの言うとおり、危ないかもしれない」
ソラが言った。
「あの人が何をするつもりなのか、分からないんだから」
「今のところ、少なくとも、お姉ちゃんが水の断片の保持者だってことは分かってる」
サリコが言った。
「それに、これまで災害を起こしたりはしてない。だから、あの戦いで暴走しなかったんなら……街を壊さずに、わたしたちみんなを救ってくれた、って言えるでしょ」
キアロコは、もう勘弁してくれという顔で、サリコを見た。
「……救った?」
「まあ……大事なのは、みんな無事だってことよ」
悪気のなさそうに手を上げて、サリコが言った。
*
キアロコは座って、気持ちを落ち着けようとしながら、ラーメンを食べ始めた。スープの湯気が、顔までのぼってくる。
勇作は椅子から立ち上がり、茶を注いで、寿司の皿を取り、事務所のテーブルへ運んだ。腰を下ろし、深く息をついて、茶をひと口すする。
サリコは、みんなを見ていた。サリコにとっては、何もかもが普通のことだった。
だが、ソラとキアロコにとっては、受け止めるのがとても難しいことだった。




