66 もう立って、ハルコ
全員が、事務所の真ん中でサリコの前にひざまずく若い従業員を見つめていた。ソラとキアロコには、その光景が、うまく説明できない胸騒ぎを残した。
サリコは、少女が今したことに、少し居心地が悪そうだった。一方の少女は、床からとびきりの笑顔でサリコを見上げていた。
「ちょっと、ハルコ。それはやめてって言ったでしょ」
ヒールのつま先で床をこつこつ鳴らしながら、サリコがじれったそうに言った。
「その呼び方はしないで」
ハルコは顔を上げた。
「分かっています、申し訳ありません……お会いできたのがうれしすぎて、脚が動かないみたいなんです」
涙と笑顔を浮かべたまま、ハルコが言った。
「うん、分かった。でも、立って。友だちの前で、恥ずかしいじゃない」
友だち? ハルコは、何が待っているのか分からないまま、少しおびえながら、ゆっくりと横を向いた。
ソラが、すぐそこにいた。ハルコの横にしゃがみこみ、顔がくっつきそうなほど近くに。
「こんにちは」
無邪気な顔で、ソラが言った。
(なんてかわいい子なの)
ハルコは思った。
(それに、この髪……ただの髪には見えない。本当に、地毛なのかしら?)
それから視線を上げて、窓のそばに立つキアロコを見た。
「もう立って、ハルコ」
腕を組みながら、サリコが言った。
「そのうち、クビにするからね?」
ハルコはとたんに身をこわばらせた。ぱっと跳ね起きて、慌てて服を整え始める。
「あっ、すみません、陛……! いえ、サリコ様! いえ、もう立ちました、ほら! もう立ってます、オコイみたいに」
頭に手をやりながら、ハルコが言った。
サリコは深く息を吸い、顔に手をやった。
「もう……あなたを、どうしたらいいの」
「何もしなくて大丈夫です! いえ……今のところ全部大丈夫だって、言いたかったんです。それに、うれしいんです、その、全部大丈夫なのが」
考えもせずに口を動かしながら、ハルコが言った。
ソラとキアロコは、ハルコを見ていた。どれほど緊張しているかは、遠くからでも丸分かりだった。
「ハルコ、元気そうでなによりだ」
椅子から、落ち着いた声で勇作が言った。
「それに、まだ私たちのところで働いてくれていて、うれしいよ」
ハルコは緊張しきったまま勇作のほうへ顔を向け、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下!」
「ハルコ、この二人はわたしの友だち」
サリコが言った。
「ソラとキアロコよ」
「あ、そうなんですね……じゃあ、サリコ様のお友だちなんですね」
そのあいだに、ソラはもうテーブルのほうへ行っていた。盆からいちばん大きな魚をつかみ、自分の家にいるみたいに座りこんで、うれしそうに食べている。
(だから、サリコ様の前でも、こんなに落ち着いてるんだ)
ハルコは思った。
(なんて気安いの! あの子を見てよ。あのテーブルから、あの魚を、まるで家族みたいに食べてる。わたしだって、そこまではできない。しかも、こっちが話してる最中なのに、何が起きてても関係ないみたいに)
キアロコは窓から離れた。テーブルからオモリ・ロサと寿司を少し取り、食べながら勇作の机まで歩いていく。その隣に立って、オモリを机の上に置いた。友人のテーブルに置くように。
(いったい、どうなってんの?)
目を大きく見開いて、ハルコは思った。
(どうして、陛下にあんなに近づけるの? 本当にお友だちなの? お友だちなんて、ほとんどいないのに……どういうこと?)
「ねえ、ハルコ、大丈夫?」
サリコが聞いた。
ハルコは答えなかった。上の空のようだった。
「あっ、はい! 大丈夫です」
ようやく、ハルコが反応した。
「皆さんにお会いできて光栄です。今日はとてもお元気そうで、うれしいです。どうか、思いきり楽しんでくださいね。わたし……そろそろ失礼します」
そう言って、うつむいたまま扉のほうへ歩き出した。
サリコは、その背中を見送った。
「ねえ、ハルコ」
「はい? なんでしょう」
緊張した様子で立ち止まって、ハルコが答えた。
「わたしの手が空いたら、一緒にごはん行こうね」
サリコが、笑顔で言った。
「これまでにあったこと、話したいことがたくさんあるの」
「はい……それは、すごく楽しみです。本当に」
ハルコは初めて肩の力を抜き、穏やかな笑顔でサリコを見た。
「三人で会えたらいいですね。そうしたら、一緒にごはんに行けますし」
サリコは、一瞬黙りこんだ。
(そうね……三人、か……)
「難しいと思う」
やがて、サリコが言った。
「でも、わたしたちだけで話せる機会があるといいね」
「はい。何もかも、うまくいきますように」
ハルコが言った。
「これ以上、お時間は取らせません。どうか、お体に気をつけて。皆さん、また!」
そして扉を閉め、事務所をあとにした。
テーブルでは、ソラがまだ食べていた。
「変な子」
口をいっぱいにしたまま、ソラが言った。
「何があったんだろ?」
キアロコは何も言わずに、オモリをひと口飲んだ。
*
扉の向こう、廊下で、ハルコは立ち止まり、深く息を吸った。
(すごい……あの新しいお友だちって、誰なんだろう。まるで家族みたいにふるまってた。陛下のおそばにこんなに長くいるわたしだって、あんなことはしないのに)
眉をひそめる。
(それに……どうして、三人で出かけるのは難しいなんて言ったんだろう)
しばらく考えこむ。そして、胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。
(まさか……アンジーニに、何かあったんじゃ……)
心配になって、もう一度扉を開けようと手を上げた。だが、触れる前に止まった。手は宙に浮いたまま、木に彫られた龍から数センチのところで止まっていた。
(まあ……また今度にしよう。今日はこれ以上、陛下にご迷惑をかけたくないし)
手を下ろし、扉から離れて、廊下を歩いていく。そして、突き当たりの扉の向こうへ消えていった。




