65 水の瞳に映る、影の痛み
暖かなそよ風が窓から入り、カーテンを揺らしていた。だが、事務所の張りつめた空気までは、やわらげられなかった。
勇作は、画面の映像にじっと目を据えたままだった。ホログラムの青い光が、その顔を照らしていた。
サリコは、身の置きどころがなかった。落ち着かない。そこにはない何かを探すように、事務所の中を行ったり来たりしていた。
キアロコは腕を組んだまま、壁にどさりともたれかかった。
「誰だろうと、アンジーニは危険だ」
「アンジーニは、わたしたちを雨の中で遊ぶ子どもみたいに扱った」
無邪気な顔で、ソラが言った。
「溺れさせられなかっただけ、よかったよ」
サリコが付け加えた。
サリコの頭には、まだあの光景が残っていた。校庭を走ってソラのもとへ向かっていたときに見た、水の球の中のキアロコの姿が。
「あいつがこれ以上被害を出す前に、止める方法を探さないと」
キアロコが言った。
「あいつが野放しなのは、危険だ」
勇作は画面から目を離さないまま、頭に手をやった。
「アンジーニ……本当に、彼女なのか?」
信じられなかった。
「うん、お父さん。間違いないよ」
サリコが言った。そして急に、その顔がぱっと明るくなった。
「直接見せたかったな。すっごく素敵だったんだから。まさにディーヴァ」
「サリコ……」
勇作が言った。
だが、サリコは止まらなかった。
「雨と一緒に踊ってて、日の光で、いつもみたいにきれいに見えたの」
「サリコ……」
勇作が繰り返した。
サリコは、どこか別の場所に行ってしまったようだった。両手を組み、宙を見つめたまま、話し続ける。
「水の球の中のキアロコを見つめてたとき、海の色の瞳に、水がきらきら映ってたの。見せたかったな。それに、あの髪……ああ、もう、あの髪はまるで海の渚みたいで……」
「サリコ、もう分かった」
勇作が言った。
ソラとキアロコは、何も言わずに顔を見合わせた。渚……二人にとって、その言葉には別の意味があった。潮汐の渚。止むことなく降り注ぐ水の矢。キアロコの体に刻まれた傷。二人にとって、それは死の渚だった。
サリコは我に返った。父を見て、それから横目で、キアロコとソラを見た。サリコがアンジーニのことをあんなふうに話すのを聞いて、二人がまったくいい気分ではなかったのは、明らかだった。
「あ……ごめんね、みんな。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」
サリコが言った。
「その……まあ、分かるでしょ、アンジーニだったんだもん。あの魅力には、逆らえなくて」
息を吐いて、だんだん落ち着いていく。
沈黙は、長くは続かなかった。
「もしそうなら……深刻な問題だ」
勇作が言った。
「だが、もしそうなら……」
扉をノックする音がした。
「こんにちは。入ってもよろしいですか?」
扉の向こうから、少女の声がした。
「ごはんだ! やった!」
ソラが叫んだ。
話していたことなど一瞬で忘れたように、扉のほうへ飛んでいった。
「はい、どうぞ」
サリコもそう言って、扉のほうへ歩いていった。
扉が開き始めた。ソラはまっすぐ扉へ飛んでいく。サリコはぎりぎりで手を伸ばし、宙でソラを捕まえた。扉がすっかり開いたちょうどそのとき、サリコはソラを腰に抱えるようにして支えていた。
少女が、料理でいっぱいのワゴンを押して入ってきた。一歩ごとに盆がかちゃかちゃと鳴り、魚と寿司と淹れたての茶の香りが、事務所に広がった。少女はワゴンを、テーブルまで運んだ。
「ちょっと、降りて。何してるの?」
床に下ろしながら、サリコがソラに囁いた。
「どこででもそれをしていいわけじゃないって、おなかがすいて忘れちゃったんでしょ」
「あ、そうだった……ごめん、つい」
ソラは笑顔でそう言うと、何事もなかったように歩き出した。
*
少女は料理を一皿ずつ、テーブルに並べていった。事務所の人たちのことは、あまり見ない。うつむいたまま、おずおずとしていた。
そのとき、その目がサリコの足元で止まった。ハイヒールに。
少女は動きを止めた。そのハイヒールに、どこか見覚えがあった。
ゆっくりと、顔を上げる。
そして、目をまん丸に見開いた。
「そんな……やっぱり……あなた様です!」
声を震わせ、サリコを見つめながら、少女が言った。
「陛下!」
それから、事務所の机のほうへ顔を向け、椅子に座る勇作を見た。
「陛下……」
勇作を見つめて、囁く。
「お二人とも……!」
顔から血の気が引いた。青ざめていながら、同時にうれしそうでもあった。目の前の光景が信じられないというように。涙が、頬を伝い始めた。
「陛下」
サリコに向かって言い、
「陛下」
勇作に向かって言った。
「失礼いたしました。こちらにいらっしゃるとは、存じませんでした。休暇から戻ったばかりなのです。出発する前は、お二人がいなくなってから、何もかもがめちゃくちゃになりかけていて……ご無事で、本当によかった! しかも、こんなところで!」
少女は事務所の真ん中でひざまずき、両手を胸の前で組んで、サリコに頭を下げた。
「ご無礼をお許しください、陛下」
その声は、祈りのように響いた。
勇作は椅子から、くつろいだ様子で少女を見ていた。少しも奇妙なことではない、とでもいうように。サリコは黙って、その言葉に耳を傾けていた。
キアロコは、壁にもたれたまま動けなかった。
(よりによって……この子が、サリコと勇作さんを「陛下」って呼ぶのか? どうなってるんだ?)
ソラは、床にひざまずく少女を見つめていた。少女は落ち着いていた。そこでひざまずくのが、世界でいちばん当たり前のことだというように。
(変なの)
ソラは思った。
(なんでこの子、サリコと勇作さんのことをそんなふうに呼ぶの? 勘違いしてるのかな?)
キアロコは勇作を見て、次にサリコを見て、それからまた少女を見た。つながるはずのない情報を、つなぎ合わせようとしているかのように。
(じゃあ……この子の言ってることが本当なら……そんなの、ありえない)
少女は、まだ事務所の真ん中でひざまずいていた。窓から風が入り、カーテンを揺らし、行く手にあるものすべてを揺らした。ワゴンから、茶の湯気が立ちのぼる。少女の喜びと涙が、事務所の空気を満たしていた。
サリコは、穏やかなまなざしで、やさしく微笑みながら少女を見つめていた。




