63 サリコ、今度は魚をおごってね
窓から、日の光が差しこんでいた。
朝のそよ風がカーテンを揺らし、そのすき間から光の帯が入りこんで、事務所のあちこちを照らしていく。机の縁。テーブルに置き忘れられた茶のカップ。龍の彫られた大きな扉の木。外では、遠くの車の音と、建物の縁で鳴く何羽かの鳥の声とともに、街が目を覚ましつつあった。
最初に目を覚ましたのは、キアロコだった。今はバルコニーで手すりにもたれ、金色の光に照らされた街を眺めている。
部屋の中では、ソラがソファで丸くなって眠っていた。片腕を、床のほうへだらりと垂らしている。
しばらくすると、ビルの上で、うなるような音がだんだん大きくなってきた。高層ビルのあいだからヘリコプターが現れ、屋上の上を飛んで、建物のてっぺんに降りていく。巻き起こった風が、窓ガラスを震わせた。
数秒後、扉のひとつが開いて、勇作が事務所に入ってきた。いつものように、一分の隙もない。短い黒髪を、きちんと整えている。今日は白いスーツに、日の光を受けて輝く銀の腕時計。事務所を横切り、ソファで眠るソラを少しのあいだ見つめてから、バルコニーへ向かった。
「おはよう、キアロコ」
着くなり、勇作が言った。
「おはよう、勇作さん」
キアロコは体を横に向けて、笑顔で彼を見た。
「調子はどう?」
「元気だよ。君は?」
「元気だよ……少なくとも、残ってる分にはな」
キアロコは笑った。
「早起きしたようだな」
バルコニーの手すりに手を置いて、勇作が言った。
「ああ、実はな。家に帰りたかったんだけど、ソラがまだ起きない。それに、ここにいて迷惑をかけたくなくて」
キアロコは、礼儀正しく聞こえるように言った。
「気にしなくていい、キアロコ。今は、それがいちばんどうでもいいことだ」
「本当に、俺たちのことで嫌な思いをしてほしくないんだ」
キアロコは、さっきより落ち着いて、打ち解けた様子で言った。
勇作は、彼の肩に手を置いた。
「本当に、問題ない。それに、事務所の床なら、好きなだけ寝てくれていい。まあ、少なくとも夜はな。昼間は人が入ってくるし……分かるだろう? 床に転がってよだれを垂らしているところを、見られたくはないんだ」
キアロコは、何も言わずに彼を見ただけだった。笑うべきか、聞き流すべきか、分からなかった。
「少なくとも、俺がいつも泊まるホテルにはベッドがある」
ようやく、話に乗って言った。
「ああ、知っている。だが、ホテルの窓から忍びこんでただで寝るのは違法だということも、知っていてほしいね」
勇作は笑いながら、ネクタイを直した。
キアロコは何も言わなかった。言葉を探すように、あるいはいちばん手っ取り早く話をそらせるものを探すように、上を見た。
ドスン!
事務所の中から、鈍い音がした。
キアロコと勇作が中に入ると、ソファの横の床にソラがいた。目は覚めていたが、何が何だか分からないという顔をしている。
「でも、なんで床に落ちたの?」
頭をさすりながら、ソラが言った。
「床で寝てた覚えはあるのに。ソファじゃなくて……」
「おはよう、ソラ」
机の椅子に腰を下ろしながら、勇作が言った。
「おはよう、勇作さん。ごめんなさい、何があったのか分からないの。動けなくなって……」
「分かっているよ、ソラ。気にしなくていい。何も問題はない」
「あ、そっか。何も問題ないなら、よかった」
ソラは笑顔で、事務所の隅へ歩いていった。
「勇作さんの事務所の床で寝たかったなんて、思われたくないもん」
「いや、ソラ、本当に気にしなくていい。大事なのは、君が無事なことだ。それに、このフロアでは誰も寝ていないから、夜なら好きなだけここで寝ていい」
パソコンの画面の陰で笑みを隠しながら、勇作が言った。
キアロコは、何も言わずに頭に手をやった。
ソラはやわらかな風とともに床から浮き上がり、キアロコの肩のところまで飛んでいって、耳元に顔を寄せた。
「ねえ、兄さん。今日は元気?」
「ああ、元気だ、ソラ」
彼はそう答えて、ソラの髪をなでた。ソラは微笑んだ。
ソラは事務所の中を飛び回り始めた。家具のあいだをくるくると回り、髪をなびかせて。朝の光が、背中から彼女を透かしていた。
「元気でよかった、キア……」
最後まで、言えなかった。
扉が勢いよく開き、ソラの顔を直撃した。ソラは扉の裏で、ぺしゃんこになった。
サリコが、息を切らして入ってきた。走る必要もないのに走ってきた人の、息づかいだった。
「やっほー……着いたよ」
息を整えようとしながら、サリコが言った。
「よう、サリコ」
キアロコが言った。
「やっほー、キアロコ。元気?」
あたりを見回しながら、サリコが聞いた。ソラを探しているのに、見つからない。
「元気だよ。少なくとも、俺はな」
キアロコが笑って答えた。
「まさか……」
サリコはうつむいた。
「ソラはどこ? 何があったの?」
心配になったサリコは、後ろも見ずに後ずさりし始め、ソラの足を踏んでしまった。扉にぶつかったあと、床に座りこんでいたソラの足を。
「いたっ! 痛いってば! ちゃんと見てよ!」
頭をさするべきか、足をさするべきか分からないまま、ソラが叫んだ。
サリコは、ソラの横にしゃがみこんだ。
「ごめん! 床にいるなんて知らなかった。足踏んじゃって、ごめんね。っていうか、扉の裏で何してるの?」
みんなが、目を細めてサリコを見た。
「走って入ってきたとき、扉でわたしにぶつけたんでしょ!」
ソラが叫んだ。
「えっ、ほんとに?」
サリコが、驚いて言った。
「ああ」
椅子に座ったまま、何も見ていなかったふりをしながら、勇作が言った。
「ごめんね、ソラ。わざとじゃないの」
サリコはソラの腕を取って、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「うん、分かった」
サリコの胸に顔をうずめたまま、ソラが笑顔で言った。
「じゃあ、今度は魚をおごってね」
みんな、声を上げて笑った。サリコは喜んで引き受けた。ソラが昨夜から何も食べていないことを、知っていたからだ。
風が窓から入ってきて、カーテンを揺らした。新しい朝の光が、事務所を満たしていった。




