60 二つの顔、ひとつの沈黙
風が、おさまりつつあった。
キアロコは、まだ水の球の中に閉じ込められていた。アンジーニは数歩前に出て球に近づき、その中でキアロコが溺れていく様子をじっと眺めた。口からこぼれる泡は、だんだん小さくなっていく。
ソラは地面からそれを見ていた。キアロコはなおも抜け出そうともがき、両手で水を叩いていた。その動きは、どんどん鈍くなっていく。
ソラの呼吸が、変わった。
怒りに駆られ、ソラは構えを取って、どうにか地面から立ち上がった。ありったけの風を集め始める。木の葉、瓦礫、倒れた木々の枝、行く手にあるものすべてを。何もかもが目の前で回り始め、ひとつの旋風へと集まっていく。呼吸はどんどん速く、深くなり、旋風は一秒ごとに大きくなっていった。やがて、その風がアンジーニの髪を揺らし始めた。
だが、アンジーニは眉ひとつ動かさなかった。ソラを見てさえいなかった。
旋風は、さらに形を成していった。より強く、より濃く。獣のように吼え、校庭の地面をえぐり取っていく。
そこでようやく、アンジーニはわずかに顔をソラへ向けた。口から血を流しながら、必死に旋風を保とうとしているソラが見えた。
「させない!」
ソラが叫んだ。その体は、ますます疲れ果てていく。
アンジーニは目の前の旋風を見た。圧倒的で、巨大だった。その中では瓦礫が、丸ごとの木々が、校庭にあったあらゆるものが回っている。遠くでは、止めてあった車が風に引きずられ、宙で回り始めた。
そして、その進路の真ん中にいたアンジーニとキアロコへ向かって、まっすぐに弾き飛ばされた。
球の中から、キアロコは、車がアンジーニの背後から迫ってくるのを、かろうじて見た。
だが、彼女に触れる前に、車は真っ二つになった。
水の鞭が、それをきれいに断ち切っていた。二つに分かれた車体は彼女の両脇を通り過ぎ、金属とガラスの轟音とともに地面に叩きつけられた。鞭は、ただの水滴のように地面へ落ちた。
アンジーニは、振り返りさえしていなかった。
「キアロコ!」
ソラは叫び、旋風をアンジーニへと放った。
旋風は、行く手のすべてを破壊しながら進んでいった。
アンジーニが旋風のほうへ片足を動かすと、水がその方向へ地面を走り始めた。水は地面に広がり、旋風と同じ大きさにまで達した。それから彼女は、風の回転とは逆の向きへ、足をひねった。
水が立ち上がり、反対向きに回り始めた。
旋風の勢いが落ちた。内側から水の針が噴き出し、旋風を中から外へと貫いていく。旋風は、あっけなく崩れ去った。瓦礫と木々があちこちに降り注ぐ。最後にもう一度、風が強く吹いた。その中心に、一瞬だけ、内側から針を突き出した水の柱が見えた。
そして、それも一滴の水のように、地面へ落ちた。
アンジーニが身動きひとつする必要もなく、自分の攻撃がこんなにもたやすく崩されるのを、ソラは見た。
膝をつく。それから、顔から地面に崩れ落ちた。力尽きて、もう動けない。持てるすべてを出し切っていた。
「ねえ、お嬢ちゃん、邪魔しないでくれる?」
アンジーニが言った。
「殺す前に暴走されたら困るのよ。あなたの相手なんて、したくないもの。だから、そうなる前に、さっさと殺してあげるわ」
ソラから視線を外し、再びキアロコへ目を戻した。
キアロコは、今にも目を閉じそうだった。できるのは、地面に倒れ、傷ついたソラを見つめることだけ。彼女のために、何もしてやれなかった。
*
サリコが校庭にたどり着いたのは、そのときだった。
全速力で駆けてきたサリコは、地面に倒れた重傷のソラを見て、心臓が胸から飛び出しそうになった。頭の中がパニックで埋め尽くされる。ソラのもとへ駆け寄って膝をつき、その体を腕に抱いて見つめた。傷だらけで、埃と血にまみれている。涙が頬を伝うなか、サリコはソラの手を握った。
「ソラ……ソラ!」
だが、その注意は、水の球に閉じ込められ、身を守ることもできないキアロコへと向いた。
アンジーニは、その叫び声を聞いた。ゆっくりと首を巡らせ、サリコの腕の中のソラを見る。
それから、サリコを見た。
サリコもまた、アンジーニを見た。
「だめ……!」
サリコは囁いた。アンジーニから目を離さないまま首を横に振り、ソラを胸に抱き寄せる。その声は、絶望に満ちていた。
アンジーニは、サリコをじっと見据えた。一瞬、何の反応も示さなかった。それまで嘲りと侮蔑に満ちていた表情が、サリコの顔を見たとたんに凍りついた。思いがけないものを見つけたかのように、驚きに目を見開く。
サリコもまた、動けなくなった。その目には、戸惑いと恐怖が入り混じっていた。どうすればいいのか、分からなかった。
アンジーニは目を細めたが、何も言わなかった。彼女の内側で、何かが揺らめいた。遠いこだまのように。
そのとき、左目の色が変わった。海の底のような、深い青に。そして、まるで違う声――もっと冷たく、もっと遠い声で、キアロコに囁いた。
「……久しぶりだな。哀れなものだ。お前を殺す楽しみを、味わわせてもらおう」
その表情は、もう同じではなかった。笑い声は、別の誰かのものだった。
彼女の傍らに二本の水の鞭が現れ、球に狙いを定めた。キアロコを貫こうと、待ち構えている。
「お願い、やめて! やめて!」
サリコは、お辞儀をするように頭を下げて、アンジーニに向かって叫んだ。
球の中で、キアロコは全身を寒気が駆け抜けるのを感じた。内側の叫びが告げていた。何か恐ろしいことが起ころうとしている、と。想像していたよりも、はるかに暗い何かが。
アンジーニは、口の端だけで笑った。唇が歪み、悪意に満ちた笑みを形作る。まるで、別人のように。
「……ここで今、殺すほどの価値もない」
そう言った。
そして迷うことなく、手のひと振りで、水の球を弾けさせた。
キアロコは砲弾のように宙へ弾き飛ばされた。一本目の木を突き破り、二本目も突き破って、三本目に激しく叩きつけられた。衝撃で、土煙と木片が舞い上がった。
「キアロコ!」
サリコが叫んだ。
だが、その悲痛な叫びは、轟音にかき消された。
*
アンジーニは拳を握りしめた。サリコへ一歩、近づく。もう一歩。その左目は、まだ青いままだった。
そして、立ち止まった。
左目が、少しずつ元に戻り始めた。アンジーニが、自分自身に戻っていくかのように。彼女は、ソラを腕に抱いたままのサリコを見た。サリコはアンジーニから目を離さず、その目が元に戻っていくのを見つめていた。
アンジーニは二人に背を向け、歩き出した。蒸気の雲が、その体を包み込む。
蒸気が晴れたとき、アンジーニの姿はもうなかった。残っていたのは、地面の上でゆっくりと乾いていく水の跡だけ。彼女が去っていった道筋を、示すように。
沈黙が、その場を覆った。重く、息苦しい沈黙が。
今起きたことをほとんど理解できないまま、サリコとソラは呆然として、動けずにいた。
サリコは、木々のあいだに傷ついて倒れているキアロコのほうを見た。




