58 もう髪がべたべた。気に入らないわ
キアロコは、地面に横たわっていた。
身体に力が入らず、炎の少年との凄惨な戦いの傷のせいで、息が荒かった。痛みは耐えがたかった。
だが、それとは別の何かが――腹の底から湧き上がる本能が、告げていた。
まだ、終わっていない。
もっと悪いものが、来る。
*
校庭は、静かに燃えつづけていた。
残った炎が焼けた木々のあいだではぜ、熱い風が灰をゆっくりとした渦に巻き上げていた。遠くでは、サイレンが鳴りやまなかった。
背筋を、寒気が走った。
反応する間もなく、二本の水の触手が稲妻の速さで地面から噴き出した。彼を強く捕らえ、容赦なく引きずった。石と灰の上を、地面に擦りつけながら――アンジーニの足もとまで。
彼女は、自信に満ちた笑みで彼を迎えた。すべてが自分の思いどおりだとでもいうように。
「あなたのこと、忘れたと思った?」
柔らかく、それでいて危険をはらんだ声だった。
*
何の力も込めずに、彼女はキアロコの胸に片手を置いた。
ちょうど、断片がそれ自身の命を持つかのように脈打っている場所だった。
その手のひらの下で、闇の力が身をよじっているようだった。どんどん大きくなり、もう無視することのできない、ひとつの存在のように。
「見せてもらうわ。あなたがこれを持つにふさわしいのか……。それとも、素直にわたしに渡してくれる? そのほうが、手間が省けるんだけど」
問いではなかった。脅しだった。
キアロコは抗おうとした。筋肉は動けと叫んでいた。だが、水が彼を縛りつけていた。冷たく、重く、手首と足首を締めつけて。
身体が、言うことを聞かなかった。
内側で影が激しく荒れ狂っていた。だが、アンジーニの水の力のほうが勝っていた。
*
離れた場所から、ソラはその光景を見ていた。心臓が、胸を打ちつけていた。
痛みも傷もかまわず、苛立ちに満ちた目でアンジーニを睨んだ。地面の上で、どうにか構えをとった。手を上げ、風を放った。
空気が鋭い音を立て、灰を巻き上げながら校庭を走り抜けた。
アンジーニは、眉ひとつ動かさなかった。
軽く手を振っただけで、その攻撃をかき消した。風は彼女のまわりで散り、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。揺れたのは、髪のひと房ふた房だけだった。
それから彼女は、ソラのほうへ顔を向けた。
弱り、傷つき、地面に倒れている娘を見た。
その表情は甘く――偽りの甘さで、そして致命的だった。
「心配しないで、かわいい子……。あなたも、すぐに殺してあげるから」
「そう、あなたが風の保持者なのね。今のを撃ってくれて助かったわ。どの断片を持ってるのか確かめるのに、先に殺さなきゃいけないかと思ってたから」
天気の話でもするような口ぶりだった。その声には、一滴の憐れみもなかった。
*
だが、その瞬間。
何かが、変わった。
どこからともなく黒い影が現れ、アンジーニの手に巻きついた。
凄まじい力でその手をキアロコの胸から引き剥がし、彼女を校舎の壁へ激しく叩きつけた。
衝撃が、あたり一帯に響き渡った。土埃が舞い上がり、コンクリートに深い亀裂が走った。近くの窓に残っていたガラスが、弾け飛んだ。
土埃が、晴れはじめた。
だが、アンジーニは地面に落ちてはいなかった。
人間離れした身のこなしで、壁の上に、横向きに立っていた。重力など何の意味も持たないかのように。
しばらくそのまま、状況を見定めていた。
それから、楽しげな笑みを浮かべ、わずかに首をかしげた。
「あら……これは初めて見るわね」
影の動きを見つめながら、彼女は言った。その瞳が、新たな輝きを帯びた。
*
キアロコは、影が身体から抑えようもなく溢れ出していくのを感じた。
左目が、完全に黒く染まった。
足もとの地面が、激しく揺れはじめた。まるで大地そのものが、彼の力の呼びかけに応えているかのように。小石が地面の上で震え、宙を漂っていた灰が、彼のまわりを回りはじめた。彼へと、引き寄せられるように。
アンジーニは、少しも動じなかった。
見下すような笑みを浮かべて片手を上げ、弾丸の速さで水を撃ち出した。
キアロコは、左へ難なく躱した。その動きを、最初から読んでいたかのように。
水は彼の顔の横をかすめて唸りを上げ、背後の地面を撃ち抜いた。
影が彼のまわりに広がっていった。暗く、禍々しいオーラとなって彼を包み、その力とともに、さらに膨れ上がっていくようだった。
*
アンジーニは落ち着きを失うことなく、壁から降り、すばやく距離を詰めた。
拳と蹴りを、立てつづけに放った。
キアロコは防ごうとした。だが一撃ごとに衝撃が身体の芯まで響き、息を奪い、血を吐かせた。
アンジーニの力は、人間のものではなかった。解き放たれた嵐のようだった。
――それでも、影が応えた。
地面から、四本の黒い触手が伸びた。二本がアンジーニの両足を、二本が両手を、決して振りほどけない力で捕らえた。
アンジーニは無防備になった。両手両足を大きく広げられ、一枚のシーツのように引き伸ばされていた。
「ソラを……ここで死なせはしない」
低く、決意のこもった声で、キアロコが呟いた。
「こんなこと、したくなかった」
そして、彼女を殺すために、歩き出した。
*
アンジーニは、ため息をついた。小首をかしげ、嘲るような顔で。
「あら、泣かせないでよ」
彼女の身体が、輝きはじめた。
流れる水がその肌を覆い、小さな川のように身体の上を走っていった。
瞬きひとつのあいだに、彼女を縛っていた影が、霧のように蒸発した。彼女の絶対的な支配の前に、かき消されていった。触手が消えていくあいだ、かすかな、しゅうっという音があたりを満たした。
キアロコは、自分の力が何の苦もなく打ち消されるのを見た。
構えをとった。
――だが、アンジーニはもう、目の前にいた。
顔に蹴りを入れられ、キアロコは何メートルも地面を転がった。
*
「最悪……。もう髪がべたべた。気に入らないわ」
苛立たしげに髪をかき上げながら、アンジーニが言った。
「おまけに、この瓦礫のせいで、灰の匂いまでするじゃない」
キアロコは、地面から起き上がろうとした。残ったわずかな力で、どうにか身を起こした。手で、口もとの血を拭った。
(くそっ、速すぎる)
そう思った。
(それに、あいつを近づけちゃだめだ。あの攻撃は、躱せない)
風向きが変わり、焼けた木々の煙が、濃く苦く、二人のほうへ流れてきた。
自分の木の下で、ソラはかろうじて息をしていた。
何もできずに、すべてを見ていた。拳を地面に押しつけて。自分の弱さが、悔しくてならなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
ついに、彼女が来ました。
アンジーニ――美しくて、強くて、そして容赦がない。
炎の少年を軽々と倒し、今度はキアロコとソラの前に立ちはだかる彼女は……味方なのか、それとも敵なのか。
皆さんは、アンジーニをどう思いましたか? ぜひ感想で教えてください。
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