57 制御もなく、戻る道もなく
炎の少年は、キアロコの胸を貫き、一撃で殺そうとしていた。
ソラは動けなかった。遠く、木の下から、兄が目の前で死のうとしているのを、何もできずに見ていることしかできなかった。
わずかに残った力で、左手の拳を握りしめた。
「兄さん……ほんとうに、ごめんなさい」
涙が頬を伝っていた。
「守ってあげられなくて……ごめん」
(くそっ……! どうして、わたしはこんなに弱いの。……ちくしょう、動けない)
*
キアロコは、首を掴まれたまま、炎の少年の手にぶら下がっていた。身動きひとつ取れなかった。
それでも、わずかに首を回して、ソラを見た。
これが最後だとでもいうように。
――そして、微笑んだ。
ソラは、見たくないものを今まさに見ようとしている者の目で、彼を見つめた。
*
どこからともなく、水の鞭が炎の少年の首を捕らえた。
もう一本の鞭が、同じようにキアロコを捕らえた。
二人は、校庭の正反対の方向へ放り投げられた。
炎の少年は地面に叩きつけられ、何本かの配管にぶつかった。金属のきしむ音を立てて、管がひしゃげた。
少年はすばやく身を起こし、拳を握ったまま、自分をあの速さで投げ飛ばしたものがいる方向を睨んだ。
キアロコは地面を転がり、一本の木に激突した。その衝撃で、息が止まった。頭を持ち上げ、何が起きたのかを見るのがやっとだった。
見えたのは、一筋の蒸気だけだった。どんどん濃くなっていく。
そして、その蒸気の中に、何かが映りはじめた。
人影が。
*
青いヒールの足が、蒸気の中から現れ、地面に触れた。
その瞬間、足もとから水が湧き出した。
もう片方の足が現れると、水はさらに広がった。一歩ごとに、迎え入れるかのように。
蒸気が、その姿のまわりで割れはじめた。
――そして、彼女がいた。
青い唇。冷たく、それでいて優しい顔。まっすぐな青い髪は美しく、海辺の波打ち際のようだった。
表情ひとつ変えない。
完璧だった。
恐れを知らない者の優雅さで、破壊の中を進んでくる。視線は揺るがない。身体の動きのひとつひとつが、死の舞踏のようだった。
髪をかき上げて後ろへ流し、あたりを見回した。
「誰の許しを得て、わたしの獲物に手を出したの?」
嘲りと脅しがひとつになった声だった。すべてが、凍りついたように思えた。
ソラとキアロコは、瞬きもせずに彼女を見ていた。どちらも、何も言わなかった。その存在の前で、言葉を失っていた。彼女を見ただけで、重力が重くなったかのように。
*
炎の少年が吼え、燃える悪魔のように構えをとった。左腕が、赤い光を放って燃えていた。
アンジーニは、ただ彼を見て微笑んだ。
普通の娘ではなかった。彼女に、何かが起きていた。
獲物を狩りに来た者の目をしていた。
彼女は、地面に倒れているキアロコのほうへ歩き出した。キアロコは、近づいてくる彼女を見ていた。
炎の少年が、彼女に向かって走った。
アンジーニは、最初の一撃を難なく躱した。続く蹴りは、脇腹をかすめて通り過ぎた。
少年は次々に拳を放った。どれも何にも触れなかった。彼女はすべてを先読みしていた。まるで、あらゆる角度から見えているかのように。
*
そのとき、地面が水となって弾けた。
液体の触手が地面から伸び、少年の両腕を捕らえた。
「せっかちね……」
アンジーニは、彼を見もせずに囁いた。その笑みは、殺意そのものだった。
触手が少年を後ろへ投げ飛ばした。少年は地面を転がり、行く手のあらゆるものにぶつかった。
ソラとキアロコが攻撃していたときとは、まるで違った。
*
炎の少年は、完全に制御を失った。怒りが、彼を喰らっていた。
もう人間には見えなかった。何もかもを焼き尽くして消えたがっている、生きた火の粉だった。
信じられない速さで、拳と蹴りを浴びせかけた。キアロコとソラには、その動きを目で追うことすらできなかった。
だが、アンジーニはそのすべてを、何の苦もなく躱した。
そして、腹に蹴りを入れた。
少年は凄まじい勢いで地面に叩きつけられ、溝とクレーターを穿った。
キアロコとソラには、何が起きたのか見えなかった。ただ、地面に倒れている炎の少年が見えただけだった。
アンジーニは、またキアロコのほうへ歩き出した。
キアロコは立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。かろうじて彼を守っている影は、ほとんど見えなかった。それでも、まだそこにあった。
ソラは、その娘が兄に近づいていくのを見つめていた。
*
背を向けられたことに、炎の少年は激昂した。
火の玉をつくり、彼女へ放った。もうひとつ。さらに、もうひとつ。
火の玉が彼女のまわりに降り注ぎ、その照り返しが地面の上で揺れた。ソラにもキアロコにも、何も見えなかった。攻撃が、蒸気の雲を巻き上げた。
蒸気が晴れはじめたとき――彼女は、まだそこにいた。
穏やかに。凪いだ海のように。何事もなかったかのように。
ソラとキアロコには、彼女が何をしたのか分からなかった。分かっていたのは、彼女がその場から一歩も動いていないということだけだった。
*
炎の少年が、また正面から全速力で襲いかかった。
アンジーニは、わずかに片脚を上げただけだった。蹴りを受けた少年は、地面にめり込んだ。
もう一度、蹴った。さらに、もう一度。そのたびに、少年はより深く大地へ沈んでいった。
ソラとキアロコは、彼女の目に宿る残酷さを見ていた。楽しんでいるように見えた。
それから彼女は少年の髪を掴んで持ち上げ、何メートルも先の地面へ叩きつけた。何かを壊したいとでもいうように。
そして、またキアロコのほうへ歩き出した。一歩ごとに、微笑みながら。
*
かろうじて目を開けていたソラが、どこからか力を振り絞って叫んだ。
「危ない!」
炎の少年が、炎を放っていた。地面を砕きながら、凄まじい速さでアンジーニへまっすぐ迫ってくる。
だが、アンジーニは動かなかった。
迫ってくる攻撃を見つめていた。その瞳に、炎が映っていた。
地面から、水の壁がせり上がった。
炎は、ひと筋の蒸気を残しただけだった。
「それで全部? もう少し楽しませてくれると思ったのに」
そう言うあいだに、水は地面へ落ち、盾は崩れていった。
ソラは、違う目で彼女を見た。
今度は、はっきりと分かっていた。何かが、おかしい。
*
アンジーニが、ゆっくりと首を回した。
風が髪を揺らし、服が陽の光にきらめいた。腕輪や装身具が、彼女をまばゆく見せていた。
ゆっくりと、唇が開いた。青い唇が光り、そのあいだを舌がすべった。
ソラは、彼女から目を離せなかった。キアロコは、一瞬、空気が変わったのを感じた。
アンジーニは、ただ両手を上げた。
その声は、二人の身体の内側で響く振動のように聞こえた。抗いがたいほどに。
「――潮汐の渚!」
*
彼女のまわりに、透きとおった水の矢が現れた。
何十本も。何百本も。
ソラとキアロコは、その攻撃の規模を見つめた。その技の名を聞いただけで、二人は身動きが取れなくなっていた。
矢の一本一本に、ソラが映っていた。ソラは矢を見つめ、矢はソラを見つめ返していた。
矢は護衛のようにアンジーニを取り囲み、ソラは、そのアンジーニを見つめていた。
彼女は、穏やかにそこにいた。まるで、水そのものが彼女のものであるかのように。
そして、矢を炎の少年へ放った。
ズバッ!
一本一本が、残酷なほどの正確さで少年を貫いた。どの矢も肉を裂き、どの傷からも血が流れた。
炎が止まった。炎が、揺らいだ。
そして少年は、膝をついた。
キアロコもソラも、何も言わなかった。目の前の光景に、心を打ちのめされていた。
*
炎の少年が反応するより早く、水の触手が彼を捕らえ、まっすぐ彼女のもとへ運んだ。
濡れた雑巾のように、ぶら下がっていた。力もなく。誇りもなく。
「わたしたちの差は……」
「……底が見えないほど、深いのよ」
そして、あふれるほどの静けさで、その胸に手を突き入れた。
背中から、血が噴き出した。
――そして、断片を引き抜いた。
炎が、死んだ。
少年も、死んだ。
*
アンジーニは、指のあいだで断片を転がした。何の価値もないものを見るように、それを眺めた。
そして、ポケットにしまった。
「こんな小さなもののために、ずいぶん騒がしかったこと……」
シャワーから出てきたばかりのように、髪を振った。
美しい。
温かい。
そして、死そのもの。
キアロコとソラは、何も言わずに、その娘を見つめていた。
ただ、理解した。
アンジーニは、ほかの誰とも違う。
彼女こそが、死と生の境界線だった。




