50 顔に、何かついてる?
車の中は、穏やかだった。
赤信号で止まった。
ほかの車が前を横切っていった。街の灯りが、フロントガラスに映り込んでいた。
信号が青に変わり、勇作がアクセルを踏んだ。
ソラは後部座席で、キアロコの隣でくつろいでいた。窓に頭をもたせかけ、目を半分閉じて。
サリコは窓の外を見ていた。いつも外に何かを探しているかのように。
*
車がビルの前に止まった。
四人は降り、止めた車をあとにして入口へ歩いた。
勇作が着くのを見て、スタッフたちが挨拶をした。
エレベーターで上がり、廊下を進み、勇作の事務所の大きな木の扉の前まで来た。
キアロコは、ソラを背負っていた。
扉が開き、全員がいつもと同じ落ち着きで中へ入った。
*
――だが、扉をくぐったとたん、空気が変わった。
誰かが一言でも口にする前に、キアロコの背筋を寒気が走り抜けた。
ソラの身体が、こわばった。
その左目が、光りはじめた。
「なっ……!?」
キアロコが声を上げた。
ソラの身体から、荒々しい突風が噴き出した。
勇作とサリコを、後ろへ吹き飛ばした。
カーテンが狂ったようにはためいた。窓から飛び出していこうとするかのように。
*
ソラが、腕を振り上げた。
まだ自分を背負っている、キアロコを打つために。
――だがその前に、床から影が湧き上がった。
影が彼女を包み込み、横へ放り投げた。キアロコを守るように。ただの本能で。
「ソラ!?」
何が起きているのか分からないまま、勇作が叫んだ。彼女の足は、かろうじて床に触れていた。
キアロコは、やっとのことで身を起こそうとしていた。
背後で何が起きているのかも分からないまま――瞬きひとつのあいだに、ソラが目の前に現れた。
その身体は、空気の流れに支えられて、わずかに浮いていた。
*
ためらいもなく、胸へまっすぐ蹴りを叩き込んだ。
その一撃がキアロコを壁へ吹き飛ばし、コンクリートの一部を砕いた。
キアロコは、コンセントのように壁にめり込んだ。
血を吐いた。
――公園での打撃とは、違った。
速さが違った。ソラの構えが、違った。
*
部屋の真ん中から、ソラが彼を見ていた。
見知らぬ表情で。
その目は、彼女のものではなかった。
もっと冷たく。もっと賢く。もっと、死の匂いがした。
「千年ぶりだな……お前に会うのは」
彼女の声だった。だが、別の響きに染まっていた。
「運がよかったな。私が持っているのは、知恵の断片だけだ。
力のすべてを持っていたなら……今ここで、お前を殺していた」
風が唸り、窓を震わせていた。
*
キアロコは感じていた。
彼女の中に、何か別のものがいる。
ソラだけではない。何か古いもの。見覚えのあるもの。危険なもの。
勇作がソラを見た。
彼女の身体から噴き出す風が、誰ひとり近づけさせなかった。
「お前は……誰だ」
途切れがちの声で、勇作が訊いた。
「なぜ、キアロコのことを知っている」
*
――だがそのとき、ソラの瞳が明滅した。
光が、消えた。
ソラは自分の両手を見た。
それから、キアロコを見た。
「……キアロコ?」
暗い夢から覚めたような、壊れた声でそう訊いた。
沈黙が重かった。誰ひとり、何も言えなかった。
そして、ソラは床に倒れた。気を失って。
*
サリコが駆け寄り、その横にしゃがみ込んで、意識のない彼女を見つめた。
勇作は、壁から身体を引き剥がして立ち上がろうとしているキアロコのほうへ歩いていった。
二人は、床に横たわるソラと、その隣のサリコを見ていた。
誰も、何も言わなかった。
その静けさの中で――ソラが、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、隣にいるサリコだった。サリコが、彼女を助け起こした。
ソラは、壊れた壁を見た。
事務所が、いつもと違って見えた。
「何があったの? なんで壁が壊れてるの? なんか、全部変だよ……」
みんなを見回しながら、そう言った。
*
(そうか。どうやら、今しがた自分がしたことも覚えていないらしい)
勇作はそう思った。
(なぜ、この子にこんなことが起きるのだ)
サリコが、ソラの頭に手を置いた。
「まあ、ソラ。こういうことなのは、もう分かってるでしょ。今回も覚えてないだけ。だから、大丈夫」
「じゃあ……わたしが、やったの?」
うつむいて、ソラが言った。
自分を責めかけている彼女を見て、勇作は、長い年月を重ねてきた者がすることをした。
「いや、ソラ。気にしなくていい。私たちも、慣れていかねばならんことだ。君のせいではない。
どのみち、何もかもが初めてのことなんだ。自分を責めたところで、何の助けにもならない」
*
キアロコが、ゆっくりとソラへ歩み寄った。目を離さずに。
サリコは少しだけ身を引いた。怖かったからではない。用心のためだった。――何が起きてもおかしくない。数秒のうちに。
キアロコはソラの前にしゃがみ込んだ。
左目を覗き込み、その顔に手を当てた。
何も見えなかった。
頬を動かし、口の中まで確かめた。まるで健康診断でもするように。
だが、何も見えなかった。――あるいは、探しているものが見つからなかった。
「どうしたの、兄さん? わたしの顔、何かついてる?」
目の奥を探しつづける彼に、ソラが訊いた。
キアロコは深く息を吸った。
「……何でもない」
笑って、そう言った。
「それより、大丈夫か」
「うん、大丈夫。ちょっと、くらくらするけど」
頭に手をやりながら、ソラが答えた。
*
勇作が、テーブルの横の明かりをつけた。
光の中に、彼が用意しておいたごちそうが浮かび上がった。
魚の大皿。寿司の盛り合わせ。湯気の立つ料理。色とりどりの飲み物。
「さて。それでは……食べようか」
その一言が、張りつめた空気をガラスのように砕いた。
全員が、顔を見合わせた。
「……え?」
わけが分からないまま、ソラが彼を見た。
「本気か……」
服の埃を払いながら、キアロコが呟いた。
「勇作さん……あんた、いつか殺す」
勇作はただ笑い、何事もなかったかのように歩いていった。空気を壊してやったことに、満足げに。
*
ソラはテーブルへ駆け寄り、いちばん大きな魚を取った。
サリコは、オモリ・ロサを一口飲んだ。
勇作は寿司を食べはじめた。
キアロコは、あまりの品数に、どこから手をつければいいのか分からずにいた。
あとは、笑い声と料理だけだった。
*
やがて、空になった皿と、他愛のない冗談のあいだで、ひととき静けさが戻った。
「ごちそうさまでした。でも、もう帰らなきゃ。明日、授業があるから」
いつもの口調で、ソラがそっと立ち上がりながら言った。
「来てくれてありがとう、ソラ。気をつけてね」
サリコが答えた。
「またな」
勇作が、笑顔で言い添えた。
キアロコはただ頷き、ソラの隣を歩いて扉へ向かった。
「……いろいろ、ありがとう」
キアロコが言った。
*
夜は、その静けさの中に、ひとつの秘密を抱えていた。
誰もどこから来たのか知らない声と、誰にも分からない記憶を。
キアロコは、あの寒気も、あの感覚も、忘れないだろう。
勇作は、この日を忘れないだろう。
サリコは、あの言葉を忘れないだろう。




