5 時が壊れるとき
夜が、無限になった。
廃ビルの前。外に立っているだけで、空気の張りつめ方が分かった。
剥がれた壁。割れた窓。入口でひしゃげた鉄柵。
それでも、角には武装した男たちがいた。煙草の火を灯したまま動かない影。あらゆる方向へ動く目。
マフィアだ。
キアロコは目の端で数えた。三人。四人。中にはもっといるだろう。
だが老人は、道を知っていた。
「こっちだ……」
震える指が、裏の壁の穴を示した。濡れた木箱と枯れ草に半分ふさがれている。
二人は中へ入った。
中の闇は、夜よりも濃かった。
古い段ボールの匂い。何年も積もった埃の匂い。壁に染みついた饐えた湿気の匂い。
一歩ごとに、靴の下で何かが軋んだ。ガラス。厚紙。動物の骨か、何か。
どこかの隅で、水が滴っていた。遅く、うつろな拍子で、空の壁に反響していた。
入ったのは、かつて商業施設の駐車場だった場所らしかった。
正面階段はもっと先、奥にある。割れた天窓から差し込む光が、かろうじてそこを照らしていた。
キアロコが先に進んだ。足音を消して。
老人は数メートル後ろを、口で息をしながらついてきた。
そのとき、埃の積もった床に、影がふたつ伸びた。
キアロコは手を上げ、柱の陰に滑り込んだ。老人も反対側へ身を隠す。
二人とも、息を止めた。
マフィアが階段を下りてくる。二人。武装している。
一人は無線に低い声で何か話し、もう一人は拳銃を肩に預けていた。ほとんど無造作に。
下まで来ると、二人は分かれた。それぞれ違う方向へ、柱のあいだを進んでいく。
キアロコは老人を見た。
老人がわずかに頷く。疲れた目だった。だが、揺れてはいなかった。
キアロコが動いた。
音もなく柱を回り込む。近いほうの男の背後につく。
歩幅を測る。距離を測る。角度を測る。
充分に近づいた瞬間――跳んだ。
蹴りが横から頭を薙いだ。乾いて、無駄がなかった。
男は振り返ることすらできなかった。
麻袋のように横倒しに落ちる。
ドサッ、と床を打つ音。舞い上がった埃が、梁のあたりまで昇っていった。
だが、その音が彼を売った。
「マルコ?」
もう一人の声が柱のあいだで跳ね返った。
「おい、マルコ。今の何だ」
速い足音。近づいてくる。
キアロコは階段脇の壁に背を貼りつけた。
深く息を吸う。
ひとつ。ふたつ。
相手の足音を数える。
一気に振り向いた。仕掛ける体勢で――
誰もいなかった。
一瞬、動けなかった。こめかみで脈が打っていた。
足音はもう聞こえない。
滴る水の音だけ。自分の呼吸の音だけ。
わずかに構えを解き、前へ出る。老人を探した。
どこにも見えない。
置いてきた場所へ数メートル戻る。一歩ごとに、胃が締まっていった。
そして、見つけた。
老人は柱に貼りついていた。
そのほとんど真後ろに、マフィアが銃を構えて近づいていることに、気づいていなかった。
キアロコは考えなかった。
隠れていた場所から飛び出し、あいだに立った。両手を上げて。
男の反応は速かった。銃口が即座にこちらを向く。指はすでに引き金にかかっていた。
沈黙。
古い段ボールと埃の匂いが、鼻の奥へ入ってくる。濃く、ほとんど甘く。
どこかで、まだ水が滴っていた。
男はキアロコを上から下まで眺めた。
口の端に、半分だけ笑みが浮かぶ。
「おい……ガキがこんなとこで何してる」
銃をわずかに下げた。だが狙いは外さない。
「答えろ」
キアロコは目を逸らさなかった。
「ここに住んでる」
平坦な、素っ気ない声だった。
「あんたらが来てから、うるさくて仕方ない」
男が片眉を上げた。
視線が素早く隅へ走る。積み上がった段ボール。食べ残し。畳まれた毛布。
もう一度キアロコを見た。笑みが、少しだけ広がる。計算する笑みだった。
「へえ……」
面白がるような声だった。
「聞けよ、坊主。この辺はもう危ねえんだ。失せろ。別の穴でも探すんだな」
キアロコはゆっくりと両手を下ろした。
「……ああ、そうだな。悪かった。もう行くところだった」
男は妙に落ち着いた目で彼を見ていた。潰す前の鼠をもてあそぶような目だった。
銃を完全に下ろす。だが、しまいはしなかった。
「なあ……ひとつ聞くが」
首を傾げる。
「この辺で誰か見なかったか。うちの若いのが一人、ここらを歩いてたんだが」
キアロコはもう一度男を見た。素早く考えた。
「……さあ。裏に小便でも行ったんじゃないか。さっき壁のほうで音がした。外だろ」
男はもう一秒だけ彼を値踏みした。
それから舌を鳴らし、半分笑った。
「よし。もう行け、坊主。本気で言ってんだぞ。消えろ」
そして、背を向けた。
背中を、見せた。
キアロコは迷わなかった。拳を握り、走った。
だが、男はすでに振り返っていた。
銃口が、また顔の正面に来た。
今度は笑みがない。あったのは別のものだ。冷たい計算と、満足。
「俺を馬鹿だと思ったか?」
低い、囁くような声。
「その服でどうやってこんなとこに住むんだ。そんなに小綺麗にしてやがって……」
指に力が入る。
「死ね」
「やめろぉぉっ!」
老人の叫びが、どこかから闇を裂いた。しゃがれて、引き裂かれた声だった。
自分のせいであの子供の命が危ない。それが、分かっていた。
キアロコは両手を上げ、目を閉じるのが精一杯だった。
間に合わない。分かっていた。
死んだ。そう思った。
銃声が鳴った。
一発。二発。三発。
だが、痛みは来なかった。
目を開ける。
影。
自分の影が、床から立ち上がっていた。目の前で。
黒く、濃く、手のようにねじれて――弾丸を空中に掴んでいた。
顔から、数センチのところで。
まわりの埃が、動かずに浮いている。
まるで、時間そのものが壊れてしまったかのように。
キアロコには何が起きているのか分からなかった。どうして起きているのかも分からなかった。
分かっていたのは、自分が生きているということだけだった。
あのときと同じだ。
死の淵に立って、自分の内側の何かが「今ではない」と決めた、あのときと。
男が一歩下がった。銃を持つ手が震えていた。
「な……なんだ、こりゃ……」
目を見開き、口を開けたまま。
「てめえ、何なんだ。今の何だ。どうやって……」
震えたまま、それでも指を引き金に戻した。
習慣だった。この男が知っている、唯一のことだった。
だが、撃つことはなかった。
乾いた一撃が後頭部を薙いだ。
続いてもう一発、背中に、さらに強く。
男は二つに折れ、床へ突っ伏した。
埃がまた舞い上がる。灰色の雲がゆっくりと梁へ昇り、天窓の光の筋の中で漂った。
倒れた身体の向こうに、動かずに立っていたのは――老人だった。
段ボールの隙間のどこかで見つけたバットを握っていた。
両手で構え、姿勢は崩れず、足はしっかりと地についていた。
まるで、構えを取った侍のように。
胸で呼吸が擦れていた。さっきよりも荒い。それでも、腕は下ろさなかった。
あれほど頼りなく、疲れきって見えた男が――見た目よりずっと、はるかに頼りになる男だった。
老人はバットを下ろした。深く息を吸った。
そしてキアロコのほうへ歩いてきた。
キアロコは柱のひとつに背を預けて座り込んでいた。あれが起きたあとは、いつもこうなる。
混乱していた。
少年の脇では、影がまだ動いていた。ゆっくりと。ようやく警戒を解きはじめた獣のように。
老人は、気にしなかった。
手を差し出した。恐れもなく、急ぎもせず。
キアロコがまだ知らない何かを、知っているかのように。
「行こう」
声は、これまでで一番しゃがれていた。
「ここには留まれん。やりに来たことを、終わらせんとな」
キアロコは一秒だけ老人を見た。
それから、その手を取った。
ゆっくりと立ち上がる。
内心、意外だった。
老人が自分の力を気にしないことが。怖がらないことが。他の連中が向けるあの目で、自分を見ないことが。
この男にとって、大事なのは娘だけだった。あの子をここから出すこと。一刻も早く。
キアロコは何も言わずに理解し、老人と並んで階段の下まで歩いた。
二階へ上りはじめる。
一段ごとに、埃が前より濃く舞った。
細い螺旋を描いて昇り、喉に、目に入ってくる。
木の段が、体重を受けて軋んだ。ひとつ、またひとつ。
まるでこの建物までもが、呼吸をしているかのように。
上のどこかで、くぐもった声が聞こえた。
そして、もうひとつ。
何かが、小さく泣いていた。




