↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/87

4 老人の影を追って


目に見えない時計の針が、まぶたの裏を横切っていくようだった。


キアロコは木の高みにいた。影が顔の片側だけを覆っている。


病院。ベッドの中の少女。医師の言葉。


すべてが、音のない閃光となって戻ってくる。


絶望に流されるような男ではない。だが今は、首筋で脈が打っているのが分かった。秒読みを刻む太鼓のように。


(五千アビリー……どこで作る)


(間に合わなかったら、どうする)


地平線に目をやる。陽がゆっくりと沈んでいく。消えかけの蝋燭のように。


いつも彼を導いてきた影は、黙っていた。


押しもせず、引きもせず、道も示さない。


それ以上は考えず、彼は南へ飛んだ。


屋根から屋根へ跳び、路地を越え、影のあいだを駆け抜ける。廃プラントをいくつも回った。古い工場も。


そして、光のほとんど届かない一つに入った。


電球が、死にかけの星のように吊り下がっている。空気は錆と油の匂いがした。


そこに、男がいた。


割れた配管の脇、隅に追い詰められるようにして座っていた。古いピザの箱ひとつが、唯一の食料だった。


背は丸まり、疲れきって――そして、敗れていた。


キアロコは無表情のまま近づいた。目に憎しみはない。だが、憐れみもなかった。


「恨むな」


声は揺るがなかった。


「目的があってやってる」


男が顔を上げた。


その目は、砕けた月がふたつ。


「ああ、そうだろうな……。だが連れていく前に……聞いてくれるか」


キアロコは黙っていた。


まっすぐには見ない。聞くことが選択肢ではなく、ただの礼儀であるかのように。


それでも――彼の影の何かが、静かに止まった。


何かが、待っていた。


「わしのことなんぞ、どうでもいいだろう。それでいい」


男は唾を飲み込んだ。声が震えていた。


「だがな、あいつらが本当に欲しいのはわしじゃない……書類に署名させたいんだ。署名したら、殺されるのはわしだけじゃない。……娘も殺される」


キアロコは奥歯を噛んだ。言葉のひとつひとつが、石のように重かった。


「金を払われようと、あいつらは誰も生かしちゃおかん。……いや、聞かされてないのかもしれんな。だが、そうなる。二人とも殺される」


沈黙。


背後で、影がわずかに動いた。


キアロコは地面に目を落とした。


この男を知らない。その娘も知らない。


彼が知っているのは、病院のベッドに横たわるあの少女だけだ。言葉もなく彼を見つめ、それでも世界には理解できないつながりで結ばれた、あの子だけ。


それなのに――何かが痛んだ。


内側で燃える力があっても、寄り添う闇があっても。彼は、理由のない死を見過ごせる男ではなかった。


男が数センチだけ身を起こした。涙が髭を濡らしていた。


「金なら……わしが倍出す。いくらでもいい。……足りなければ、娘が払う。何を言われても払う」


声が裂けた。


「だから、あの子を殺させないでくれ。わしが死ぬなら……それでいい。……それでいいんだ。だが、あの子の命まで持っていかせないでくれ」


キアロコは何も言わなかった。


目は地面に据えられたままだった。


胸の中で、内側の戦いが吼えていた。


ひとつの命の代価。もうひとつの命の救い。


風が吹いた。


影は、動かなかった。


そして、キアロコは――決めた。


時間が胸に突き刺さっているのを感じていた。


一秒ごとが刺し傷だった。あの子はまだ病院にいる。一人で、生きようとしている。


老人を見て、乾いた声で言った。内側では火が燃えていた。


「娘の居場所は分かるか。無駄にする時間はない」


そして、こう続けた。


「約束は守れよ。……あんたのほうが、あいつらよりまだ信用できる。それだけでも大したもんだ」


老人は、震える笑みを浮かべた。命を返してもらったばかりのような顔だった。


「ああ……分かる。わしは逃げられたが、あの子は逃げられなかった。北の古いビルだ。遠いが、必ず着く。約束する」



   *



壊れた街灯の弱い光の下を歩いていく。灯りまで、この通りを照らすのに疲れたかのように明滅していた。


濡れたアスファルトと、壁際に積み上がった古い塵芥の匂いがした。


遠くで犬が吠え、その反響が窓のないビルのあいだで死んでいった。


老人が話していた。


割れた、擦り切れた声で、自分の話をしていた。何年も誰にも聞いてもらえなかった人間の話し方だった。


「昔は……昔は、家に笑い声があった」


キアロコにというより、空気に向けた呟きだった。


「今はもう、それがどんな音だったかも思い出せん」


言葉と言葉のあいだで、呼吸が擦れた。立ち止まり、唾を飲み、また続ける。


一文ごとに力を使っていた。足よりも胸のほうが重いかのように。


だが、キアロコは聞いていなかった。


考えていたのは、あの子のことだけだった。病院にいる、あの子。


自分の影。自分の誓い。自分の小さな灯り。


視線を地面に落としたまま歩く。歩道の冷たさが靴底から上がってきた。


すでに抱えている約束が多すぎる。


だが、これだけは果たす。それだけは確かだった。


「ここだ」


老人の声が、さらに小さくなった。


着いた。


キアロコが顔を上げる。


廃ビルの周囲に、武装したマフィアが散らばっているのが見えた。剥がれかけた壁にもたれかかる、動かない影たち。


割れた下水管から汚水が一筋流れ出し、その水と一緒に、この場所の腐った臭いが立ちのぼっていた。湿気と、ごみと、それより悪い何か――ずっと前からそこで腐っている何かが混ざった臭い。


男たちは身を潜めていた。どの角にも目を配っている。噛みつけという命令を待つ犬のように。


キアロコは奥歯を噛んだ。


老人の娘の命は、時計の上にある。


そしてその時計は、もうほとんど巻きが残っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。