4 老人の影を追って
目に見えない時計の針が、まぶたの裏を横切っていくようだった。
キアロコは木の高みにいた。影が顔の片側だけを覆っている。
病院。ベッドの中の少女。医師の言葉。
すべてが、音のない閃光となって戻ってくる。
絶望に流されるような男ではない。だが今は、首筋で脈が打っているのが分かった。秒読みを刻む太鼓のように。
(五千アビリー……どこで作る)
(間に合わなかったら、どうする)
地平線に目をやる。陽がゆっくりと沈んでいく。消えかけの蝋燭のように。
いつも彼を導いてきた影は、黙っていた。
押しもせず、引きもせず、道も示さない。
それ以上は考えず、彼は南へ飛んだ。
屋根から屋根へ跳び、路地を越え、影のあいだを駆け抜ける。廃プラントをいくつも回った。古い工場も。
そして、光のほとんど届かない一つに入った。
電球が、死にかけの星のように吊り下がっている。空気は錆と油の匂いがした。
そこに、男がいた。
割れた配管の脇、隅に追い詰められるようにして座っていた。古いピザの箱ひとつが、唯一の食料だった。
背は丸まり、疲れきって――そして、敗れていた。
キアロコは無表情のまま近づいた。目に憎しみはない。だが、憐れみもなかった。
「恨むな」
声は揺るがなかった。
「目的があってやってる」
男が顔を上げた。
その目は、砕けた月がふたつ。
「ああ、そうだろうな……。だが連れていく前に……聞いてくれるか」
キアロコは黙っていた。
まっすぐには見ない。聞くことが選択肢ではなく、ただの礼儀であるかのように。
それでも――彼の影の何かが、静かに止まった。
何かが、待っていた。
「わしのことなんぞ、どうでもいいだろう。それでいい」
男は唾を飲み込んだ。声が震えていた。
「だがな、あいつらが本当に欲しいのはわしじゃない……書類に署名させたいんだ。署名したら、殺されるのはわしだけじゃない。……娘も殺される」
キアロコは奥歯を噛んだ。言葉のひとつひとつが、石のように重かった。
「金を払われようと、あいつらは誰も生かしちゃおかん。……いや、聞かされてないのかもしれんな。だが、そうなる。二人とも殺される」
沈黙。
背後で、影がわずかに動いた。
キアロコは地面に目を落とした。
この男を知らない。その娘も知らない。
彼が知っているのは、病院のベッドに横たわるあの少女だけだ。言葉もなく彼を見つめ、それでも世界には理解できないつながりで結ばれた、あの子だけ。
それなのに――何かが痛んだ。
内側で燃える力があっても、寄り添う闇があっても。彼は、理由のない死を見過ごせる男ではなかった。
男が数センチだけ身を起こした。涙が髭を濡らしていた。
「金なら……わしが倍出す。いくらでもいい。……足りなければ、娘が払う。何を言われても払う」
声が裂けた。
「だから、あの子を殺させないでくれ。わしが死ぬなら……それでいい。……それでいいんだ。だが、あの子の命まで持っていかせないでくれ」
キアロコは何も言わなかった。
目は地面に据えられたままだった。
胸の中で、内側の戦いが吼えていた。
ひとつの命の代価。もうひとつの命の救い。
風が吹いた。
影は、動かなかった。
そして、キアロコは――決めた。
時間が胸に突き刺さっているのを感じていた。
一秒ごとが刺し傷だった。あの子はまだ病院にいる。一人で、生きようとしている。
老人を見て、乾いた声で言った。内側では火が燃えていた。
「娘の居場所は分かるか。無駄にする時間はない」
そして、こう続けた。
「約束は守れよ。……あんたのほうが、あいつらよりまだ信用できる。それだけでも大したもんだ」
老人は、震える笑みを浮かべた。命を返してもらったばかりのような顔だった。
「ああ……分かる。わしは逃げられたが、あの子は逃げられなかった。北の古いビルだ。遠いが、必ず着く。約束する」
*
壊れた街灯の弱い光の下を歩いていく。灯りまで、この通りを照らすのに疲れたかのように明滅していた。
濡れたアスファルトと、壁際に積み上がった古い塵芥の匂いがした。
遠くで犬が吠え、その反響が窓のないビルのあいだで死んでいった。
老人が話していた。
割れた、擦り切れた声で、自分の話をしていた。何年も誰にも聞いてもらえなかった人間の話し方だった。
「昔は……昔は、家に笑い声があった」
キアロコにというより、空気に向けた呟きだった。
「今はもう、それがどんな音だったかも思い出せん」
言葉と言葉のあいだで、呼吸が擦れた。立ち止まり、唾を飲み、また続ける。
一文ごとに力を使っていた。足よりも胸のほうが重いかのように。
だが、キアロコは聞いていなかった。
考えていたのは、あの子のことだけだった。病院にいる、あの子。
自分の影。自分の誓い。自分の小さな灯り。
視線を地面に落としたまま歩く。歩道の冷たさが靴底から上がってきた。
すでに抱えている約束が多すぎる。
だが、これだけは果たす。それだけは確かだった。
「ここだ」
老人の声が、さらに小さくなった。
着いた。
キアロコが顔を上げる。
廃ビルの周囲に、武装したマフィアが散らばっているのが見えた。剥がれかけた壁にもたれかかる、動かない影たち。
割れた下水管から汚水が一筋流れ出し、その水と一緒に、この場所の腐った臭いが立ちのぼっていた。湿気と、ごみと、それより悪い何か――ずっと前からそこで腐っている何かが混ざった臭い。
男たちは身を潜めていた。どの角にも目を配っている。噛みつけという命令を待つ犬のように。
キアロコは奥歯を噛んだ。
老人の娘の命は、時計の上にある。
そしてその時計は、もうほとんど巻きが残っていない。




