48 風がさらった笑い声
二人は食事をし、数時間を外で過ごした。
起きたことについて話し、あの公園で何があったのかを、あれこれと考えながら。
それからビルへ戻った。まだ、ソラのことが気がかりなまま。
――だが、これから目にするものへの備えは、何ひとつできていなかった。
*
黙ってエレベーターで上がった。
扉が開き、事務所に入ったところで、二人は立ち止まった。目を見開いたまま。
ソラが、サリコと並んでテーブルに座り、何事もなかったかのようにお茶を飲んでいた。
二人とも、穏やかに、小さく笑い合っていた。すっかり落ち着いて。
湯呑みから湯気がゆっくりと立ちのぼり、大きな窓から午後の光が差し込んでいた。
「な……何してるんだ、ソラ」
戸惑って、キアロコが訊いた。
「病院にいると思ってたんだぞ!」
ソラが、驚いたように顔を上げた。
「病院? あっ、そうだった! でも、もうずっと元気になったよ。サリコが、休ませるためにここへ連れてきてくれたの」
*
勇作が、疑わしげに彼女を見た。
「では、公園は。何があった。めちゃくちゃになっていたぞ」
ソラは目を伏せ、考え込んだ。
「練習してたの……。夢中になっちゃって。風を、うまく制御できなくて……それで、ほら」
そう言いながら、うつむいた。
サリコが、落ち着いた声で口を挟んだ。
「ソラはね、一生懸命覚えようとしてるの。でも、まだ慣れてない。ときどき、力のほうに振り回されちゃうんだって。さっき、話してくれてたところ」
キアロコは、まだ心配だった。
それでも、無事な彼女を見て、かすかに笑った。
「まったく……。公園のあとで、こんなにのんびりしてるとは思わなかった」
ソラはいたずらっぽく、湯呑みを持ち上げた。
「慣れてきたのかも。でも、まだ覚えなきゃいけないこと、いっぱいあるよね?」
*
少し表情をゆるめた勇作が、釘を刺した。
「ああ。だが頼むから、次の公園は壊さないでくれ」
みんなが、少し笑った。
キアロコは、椅子にどさりと腰を下ろした。
「こういうのに慣れるのが早すぎる気もするけど……とにかく、無事でよかった」
サリコが、にこりと笑って言い添えた。
「みんなで一緒に覚えていけばいいんだよ。それがいちばん大事」
穏やかな空気が、部屋を満たしていた。
――今のところは。
*
ソラが、不意にうれしそうに立ち上がった。
「バルコニーに行こう! すごいもの見せてあげる!」
全員で外へ出た。
夕方の空気はひんやりとしていた。眼下には街が大きく広がり、灯りがともりはじめた通りが続いていた。
――何の前触れもなく、ソラがサリコの手を取った。
そして、すばやい動きで、彼女を宙へ放り投げた。手すりの向こうへ。
サリコが、バルコニーから飛び出していった。
*
キアロコと勇作は、凍りついた。
ソラがサリコを虚空へ投げ出すのを、ただ見ていた。
サリコは下を見た。
街。車。通り。何もかもが、ひどく遠かった。
「え……」
「え……」
「な、なんであんなことを……」
キアロコが言った。
それから、ソラを見た。
落ち着いていた。サリコを見ていた。
――サリコは、落ちていなかった。
*
サリコは、風の球の中に浮かんでいた。
街の上に、宙吊りになって。恐怖に目を見開いたまま。
落ちていないのは分かっていた。それでも、身体が固まって動けなかった。
「ソラ、何してるんだ! 下ろせ!」
手すりへ駆け寄りながら、キアロコが叫んだ。
勇作は、青ざめたまま動けずにいた。
サリコは震えていた。身動きひとつできず、恐怖に囚われて。
「ソラ、下ろして! お願い!」
みんなの反応に戸惑って、ソラが呟いた。
「ごめん……。そんなに怖がると思わなかった」
*
ソラは、そっと彼女をバルコニーへ引き戻しはじめた。
ぎこちない手つきで、風の球を床まで下ろした。
サリコは無事に立っていた。
――だが、震えていた。
「ひどいよ!」
涙を浮かべて、訴えた。
「すっごく怖かったんだから!」
ソラは、しゅんとしてうつむいた。
「見せたかっただけなの。わたしにできること。……もう、しない」
キアロコが、厳しい顔で近づいた。
「後のことも考えずに、あんなことしちゃだめだ!」
まだ顔に怯えを残したまま、勇作が言い添えた。
「君のやることは、たいしたものだ……。だが、危険でもある」
*
サリコが深く息を吸い、小さく笑って、張りつめた空気をほどこうとした。
「まあ……少なくとも、どこかから落っこちても、風は信用していいってことは分かったかな」
みんなが笑った。これ以上のことにならなくてよかったと、胸をなでおろして。
「これは、パズルが組み上がっていくようなものだな!」
勇作が、身を乗り出すように言った。
「ソラは、人を飛ばせるのか! たいしたものだ。きっと、すばらしいことに違いない」
ソラが、うれしくなって調子に乗った。
「勇作さんも、投げてあげようか?」
そう言いながら、彼の手を取ろうとした。
「いや、いや!」
笑いながら、勇作が言った。
「私は、地に足がついているほうがいい。……それにな、バルコニーと私は、大の仲良しなんだ」
そして彼女の頭に手を置き、愛おしげに髪をくしゃくしゃにした。
*
笑い声が、また辺りを満たした。
キアロコが、ソラの肩をぽんと叩いた。
「上達が早いな。けど、忘れるなよ。力は、人を驚かせるためだけのものじゃない。……守るためのものでもあるんだ」
ソラは、まだ少し照れたまま頷いた。
「うん、分かってる……。もっと気をつける。約束する」
道のりがまだ長いことは、誰もが分かっていた。
それでも、みんなでなら向き合えることも、分かっていた。
毎日練習を続けて、もっと気をつけていけば――ソラは、少しずつ、もっと多くを覚えていけるはずだった。
四人は、そのままバルコニーにいた。
街に夜が降りてくるのを眺めながら。
風が、カーテンをそっと揺らしていた。




