46 風が残したもの
事務所では、午後が静かに過ぎていた。
サリコと勇作は、それぞれの机で仕事をしていた。ファイルと書類に囲まれて。
紙のあいだで、二つの湯呑みが湯気を立てていた。
聞こえるのは、紙をめくる音と、ときおり木の上に判を押す、やわらかな音だけだった。
*
扉がノックされた。
秘書が顔を覗かせた。
「準備が整いました、会長」
「分かった」
署名していた書類から目も上げずに、勇作が答えた。
「すぐに行く」
秘書は頷いて、下がった。
サリコは集中したまま、自分の書類を続けていた。
勇作は署名を終え、ペンを机に置いて、立ち上がった。
椅子の背から上着を取り、すばやい動きで袖を通した。
「残りは、あとで片づける」
「うん」
もう一方の机から、手を止めずにサリコが言った。
「わたしも、ちょっと歩いてくる」
二人とも、真面目な声だった。仕事が多すぎて、時間が足りない者たちの口調だった。
「では、あとでな」
「はい、お父さん」
扉が、彼の背後で閉まった。
*
勇作はエレベーターで下りた。ポケットに手を入れ、表示盤の数字がひとつずつ減っていくのを見ながら。
扉が開くと、しっかりとした足取りでロビーを横切った。
出口では、もう迎えが待っていた。
外には、黒い車が四台、歩道に沿って並んでいた。その後ろに、白いバンが二台。
一人の男が、二台目の車の扉を開けた。
勇作は何も言わずに乗り込んだ。車列が動き出した。
*
いつもの喧騒の中を、街を抜けていった。
クラクション。エンジン。歩道を急ぐ人々。窓の隙間から入り込んでは、すぐに消えていく話し声。
赤信号で、車列がまるごと止まった。
勇作は黙って窓の外を見ていた。
あの車の中に誰が座っているのかも知らずに、いつもどおりに流れていく街を。
信号が青に変わり、車列はまた走り出した。
少しずつ、ビルが後ろへ遠ざかっていった。
通りは広く、がらんとしていき――やがて、街の外れにある遠い公園に着いた。ほとんど誰も来ない場所だった。
*
車が止まった。
誰かが勇作のために扉を開け、彼は降りた。
バンから何人もの人間が出てきた。ファイルや書類を抱え、丸めた工事の図面を小脇に挟んで。
勇作は、あたりを見回した。
古い木々。落ち葉に埋もれた小道。陽に焼けて色の抜けたベンチ。
「ここか」
そう訊いた。
「はい、こちらです」
秘書が答えた。
「そうか」
何人かを連れて、公園の中を歩きはじめた。
一行は、敷地のつくりや、植え込みや、開けた場所を確かめ、新しい計画の図面の上をあちこち指さしていた。
技師の一人が、高低差と排水について話していた。別の一人は、手帳に寸法を書き込んでいた。
*
公園の反対側では、一人の男が、三人の同僚と歩いていた。みな、勇作のチームの人間だった。
地面を確かめていたとき、そのうちの一人が、不意に足を止めた。
草の上に、何かがあった。
四人は、そっと近づいた。
――少女だった。地面に横たわり、ぴくりとも動かなかった。
男がしゃがみ込み、その首に手を当てた。
数秒、待った。
「生きてる」
ほかの者たちに、そう言った。
「……眠ってるだけだと思う」
「警察と救急車、呼びましょうか」
別の一人が訊いた。
隣にいた男が、自信なさげに首を振った。
「分からない。まずは、会長に知らせよう」
ほかの者が何か言う前に、一緒にいた若い女性が一歩前に出た。
「はい。わたし、呼んできます」
*
彼女は足早に公園を横切り、木々のあいだに勇作の姿を探した。
噴水のそばで見つけた。
チームのほかの者たちと話しながら、宙に水しぶきを上げる噴水を眺めていた。
彼女は一行に近づいた。
だが勇作に直接話しかけるのではなく、タブレットを持った女性のほうへ身をかがめ、耳もとで何か囁いた。
「ええ、分かった」
タブレットの女性が答えた。
そして勇作に近づき、低い声で、耳打ちした。
「公園の向こう側で、お呼びです。急いでください」
「そうか、では……」
勇作は歩き出した。急がずに。いつもの落ち着きのまま。
*
そして、それを見た。
公園のその一角が、壊されていた。
根こそぎ引き抜かれた木々。まだ新しい、掘り返された土。ひっくり返ったベンチ。あちこちに散らばった折れた枝。倒れたゴミ箱と、草の上一面にばらまかれた中身。
「こんなふうじゃなかったのに……」
男の一人が言った。
「本当に、ここで何があったんだ」
隣にいた別の男が言った。
「この一角だけ、嵐が通り過ぎたみたいだ」
「ええ」
別の女性が言い添えた。
「熊だって、こんなことできないですよ」
勇作は何も言わなかった。
歩きながら、壊された公園を見ていた。倒れた木の一本一本で、わずかに足を緩めながら。
少し先に、ほかの者たちが輪になって立ち、地面の何かを見下ろしていた。
勇作は、そこまで歩いていった。
「何があった」
「女の子が、公園の地面に倒れているんです。あそこです」
*
勇作は、指さされたほうへ歩いた。
草のあいだに、金色の髪が見えた。
足が、速くなった。
まわりの者たちがそれに気づき、顔を見合わせた。
――勇作が早足で歩くことなど、一度もなかった。
たどり着いて、見下ろした。
ソラだった。
すぐに、しゃがみ込んだ。
「ソラだ……」
そう言いながら、脈を探して、その首に手を当てた。
見つけた。
弱い。だが、確かにあった。
顔を上げて、ほかの者たちを見た。
「何があった」
「分かりません」
先にそこにいた一人が答えた。
「わたしたちが来たときには、もう倒れていました」
「救急車を呼びますか」
タブレットの女性が訊いた。
「病院のヘリを呼べ」
勇作が言った。
「子どもを一人運ぶと伝えろ。どんな緊急事態にも対応できるよう、準備させておけ」
*
タブレットの女性は、一瞬、動けなくなった。その言葉に驚いて。
ヘリコプター。
公園で見つかった、一人の少女のために。
「……はい、承知しました」
自分のセヴェリーで連絡を入れた。
それからタブレットに触れると、画面に少女の受け入れ記録が表示された。
それほど経たないうちに、ローターの音が空を満たした。
救急ヘリが木々の上に現れた。羽根が回るたびに、葉と土埃を巻き上げながら。
上から担架が下ろされた。
ソラは慎重に担架に乗せられ、固定され――そしてヘリは上昇し、街の方角へ消えていった。
*
公園に、また静けさが戻った。
「これから、どうしましょうか」
タブレットの女性が訊いた。
「私は、行かねばならん」
勇作が言った。
「承知しました」
全員が答えた。
タブレットの女性は、ため息をついた。
「はあ……この件、またスケジュールを組み直さなきゃ」
請負業者たちを見た。
何か月も、この日を待っていたような顔だった。そしてその日は、風が一枚の葉をさらっていくように、消えてしまった。
「では」
彼らに、そう言った。
「公園の新しい日程が決まりしだい、ご連絡します」
*
そのときまで一言も口をきかなかった建設会社の責任者が、ゆっくりと頷いた。
「ええ、構いませんよ。大丈夫です。
……それに、命ですからね。放っておくわけにはいかない」
深く息を吸い、部下たちのほうへ向き直った。
「よし、みんな。引き上げるぞ」
「ありがとうございます」
タブレットの女性が言った。
「ご迷惑をおかけしました」
「いいんですよ、気にしないでください」
作業員たちはそう答えながら、バンのほうへ歩いていった。
「じゃあ、わたしたちも行きましょう」
もう一人の女性が言った。
そして、警護のチームと一緒に去っていった。
一人、また一人と車に乗り込み、車列は公園をあとにした。
倒れた木々と――葉のあいだをゆっくりと吹いていく風を、そこに残して。




