44 言うこと聞いてよ、風
終業のチャイムが、まだ廊下に響いていた。
ソラは、教室の扉をくぐった。
廊下に足を踏み出した瞬間、走り出した。
階段を二段飛ばしで駆け下りた。鞄をよけ、笑いながら別れの挨拶を交わしているクラスメイトたちをよけて。
裏庭にたどり着くこと以外、何も気にしていなかった。
心臓が強く打っていた。たったひとつの考えに押されて。
――練習。
風を制御したい。いつか、飛びたい。
その思いが、身体じゅうに力を満たしていた。
初めて、手が届きそうな気がしていた。
*
だが裏庭に着いたちょうどそのとき、ひとつの声が、彼女をその場に縫いとめた。
「ソラ! そこは立ち入り禁止だぞ! 今すぐ出なさい!」
生活指導の先生が、そう叫びながらこちらへ歩いてきた。
放課後、裏庭は生徒には閉ざされる。
休み時間には小さな練習場だったその場所が、今は彼女に禁じられていた。
ソラはぴたりと止まった。すばやく頷いた。
「はい、分かりました」
言い返している暇はなかった。頭にあるのは、風のことだけだった。
一秒も無駄にせず、学校を飛び出した。
そして街へ飛び込んだ。行き先も決めずに。風に、導かれるまま。
*
何かが違った。
疲れを感じなかった。
いつもなら数分走っただけでくたくたになる身体が、軽かった。まるで空気に支えられているかのように。
呼吸が、深くなっていった。
風が、ついてきているようだった。
後ろから髪を持ち上げ、耳もとで吹き、背中を押した。もっと速く、と励ます見えない手のように。
そして気づかないうちに、軽々と跳びはじめていた。
はじめは歩道から歩道へ。それから、通りから通りへ。
足が宙にある時間が、あり得るはずの長さよりも長かった。
一瞬、家々を上から見た。
屋根。洗濯物の干された物干し。アンテナ。陽だまりで眠っている猫たち。
(わたし……浮いてる……?)
そう思った。背筋を、寒気が走り抜けた。
*
まるで、自分の身体が自分のものではないようだった。
風が押し、支え、導いていた。
キアロコの動きを思い出した。学校へ向かう、あの朝の道。あり得ない跳躍。宙を滑るような動き。
どうしてなのかも分からないまま、自分も似たようなことをしていた。
――もっとも、彼女のやり方は、めちゃくちゃで、まるで制御がきいていなかったけれど。
(すごい……!)
そう思った。それでも、怖さが完全に消えたわけではなかった。
もし落ちたら? もし、制御できなくなったら?
だが、勢いのほうが強かった。
そのまま、進んだ。
*
何度か跳んだあとで、人気のない公園に降り立った。
街の中でも、ほとんど誰も来ない一角だった。
広い場所だった。伸び放題の草に覆われ、古い木々と、陽に焼けて色の抜けた木のベンチに囲まれていた。
小道は、何週間も誰も掃いていない落ち葉に埋もれていた。
子どももいなかった。散歩する人もいなかった。
聞こえるのは、遠くの鳥の声と、揺れる梢のざわめきだけだった。
練習には、うってつけだった。
息は上がっていた。だが、止まらなかった。
続けなければ。
「何か、動かせるかな……」
両手を前に伸ばしながら、そう呟いた。
*
集中し、力を込めた。
風は、かすかに揺れただけだった。
弱々しい、何の害もない一陣が、地面の葉を二、三枚動かし、すぐに消えた。
さっきと同じだった。
眉をひそめた。苛立ちが、募っていった。
両手を空へ上げた。
「ほら、風! 言うこと聞いてよ!」
声を張り上げて、叫んだ。
何も起きなかった。葉っぱ一枚、動かなかった。
「言うこと聞いてよ! 聞いてって言ってるでしょ!」
地面を足で踏み鳴らした。欲しいものを買ってもらえなかった子どものように。靴で、小さな土埃を巻き上げながら。
木々は穏やかに揺れつづけていた。まるで、彼女をからかっているかのように。
*
ふうっと、息を吐いた。
少しのあいだ、じっとしていた。
それからもう一度、手を上げた。今度は、ゆっくりと。
目を閉じた。
深く息を吸った。一度。そして、もう一度。
――そして、感じた。
内側で、何かが震えていた。
やわらかな唸りだった。ほとんど気づかないほどの。まるで公園じゅうの空気が、彼女の胸と同じ拍子で呼吸を始めたかのように。
目を開けた。
彼女の手が、風を動かしていた。
小道の土埃が渦を巻いて舞い上がり、乾いた落ち葉が、踊るように指のまわりを回っていた。
梢が、そろって彼女のほうへ傾きはじめた。従うように。
ソラは嬉しくなって微笑んだ。目の前で旋風が形づくられていくのを見つめながら。
「そう……そう、そのまま……」
*
だが、渦はそこで止まらなかった。
空気が、一瞬で変わった。
風が、さらに強く回りはじめた。どんどん速く。
耳鳴りがした。髪が顔を打った。土埃が目に入った。
木々が震えていた。
枝が、乾いた音で軋んだ。折れる寸前の骨のように。
――制御を、失ったようだった。
一本、二本、三本と、木が根こそぎ引き抜かれた。その下の土を、引き裂きながら。
ベンチが、紙切れのように宙を舞った。
ゴミ箱が小道を転がり、中身を渦の中へぶちまけた。
旋風は膨れ上がり、手がつけられないまま、公園の上で唸りを上げていた。
ソラは一歩下がった。自分の生み出したものに、怯えて。
「だめ! こんなこと、したかったんじゃない!」
そう叫んだ。
両腕を一気に下ろした。それで全部止まってくれると思って。
*
だが、旋風は消えなかった。
――弾けた。
空気の波が真正面から彼女を打ち、後ろへ吹き飛ばした。
ソラは地面を何度も転がった。止まれないまま回りつづけ、最後にゴミ箱にぶつかって、金属の音を立てた。
「いったぁ……! 痛かった……」
頭をさすりながら、ぼやいた。
風は少しずつ収まっていった。
最後の何枚かの葉が、ゆっくりと落ちてきた。何事もなかったかのように。
だが、被害はもう出ていた。
*
ソラは立ち上がり、服をはたいて、あたりを見回した。
根を空にさらして倒れた木々。ひっくり返ったベンチ。草の上一面に散らばったゴミ。
公園は、めちゃくちゃだった。
「……本当に、わたしがやったの?」
自分に、そう訊いた。
そして、何もなかったかのように手の埃を払い、また公園の真ん中に立った。
(うーん……もっと小さいのにしなきゃ)
そう思った。
*
もう一度、集中した。
ゆっくりと息を吸い、両手を伸ばした。
今度は、荒々しい突風ではなかった。
両手のあいだに、小さな風の球が生まれはじめた。かすかで、そして安定していた。
目の前に、浮かんでいた。
ソラは微笑んだ。
倒れたベンチのひとつに狙いを定めて、その球を放った。
ベンチは、ほんの数センチ動いただけだった。
だが、それで充分だった。
「できた!」
わくわくして、叫んだ。
「制御できる!」
そして初めて、感じた。
風が、自分を支配しているのではない。
――自分が、風を支配しはじめているのだと。




