43 少女と風
太陽が、ようやく地平線から顔を出したころ。
キアロコは自分の部屋で目を覚ました。彼の好きな、あの見慣れた薄暗がりに包まれて。
ゆっくりと伸びをした。部屋のぬるい影が、まわりにあるのを感じながら。
隣を見た。
ソラが、いなかった。
眉をひそめた。すばやく起き上がり、家じゅうを探した。
窓から外を覗いたとき、通りを下っていく彼女の後ろ姿が見えた。学校へ向かって。一歩ごとに背中でリュックを弾ませて。いかにも彼女らしい元気さで。
(ああ……そうだった。今は、あいつのほうが早起きなんだった)
懐かしさの混じった笑みを浮かべて、そう思った。
*
シャワーを浴び、手早く着替え、電話を確かめた。
何も来ていなかった。
ため息をついた。
「今日も、静かな一日か」
そう呟いた。
空っぽの腹と、まだ考えごとに絡まったままの頭を抱えて、ピザ屋へ向かった。
店に着くと、リュウがカウンターの向こうで笑って迎えた。ちょうどこの時間に来ることを、とっくに知っていたかのように。
「ほらよ、キアロコ。朝から何か腹に入れたいころだと思ったぜ」
キアロコは、小さな感謝の笑みでピザの一切れを受け取った。
その何でもない仕草。その温かい、当たり前の日常。
それがまさに、今の彼に必要なものだった。
*
ソラが学校に着いたばかりのとき、作業員たちが二階に窓を取りつけているのが目に入った。
見上げた。心臓が速くなった。
ちょうどその真下を、二人の生徒が通りかかっていた。よそ見をしたまま。上など見もせずに。
――不意に、作業員の一人の手が滑った。
窓が、ずり落ちはじめた。
ソラは、ただの本能で動いた。
内側で、風が目を覚ました。はじめはやさしく、それから強く。
そして一陣の突風が、彼女の身体から撃ち出された。
二人の生徒を、間一髪で押しのけた。
窓が落ちた。地面にぶつかり、千の破片になって砕けた。
誰も、傷ついていなかった。
*
二人の生徒は青ざめて、足もとのガラスを見つめた。それから、あたりを見回した。
彼らにとっては、運のいい突風にすぎなかった。
それ以上の何かだったと気づいた者は、誰もいないようだった。
だが、ソラには分かっていた。
風がまだ、自分のまわりで渦を巻いているのを感じていた。どうやってそれをやったのか、よく分からないまま。
(今の……たまたま? それとも、わたしの力が、大きくなってる……?)
不安げに、自分の両手を見た。誰にも気づかれていませんように、と祈りながら。
そのとき友だちが一人やってきて、彼女の腕を取った。
二人は笑いながら話し、教室へ歩いていった。
ほかの生徒たちも次々に入ってきて、自分の席を探していた。
*
少しして、先生が来た。
いつものようにみんなに挨拶し、生徒たちはそれぞれの席に着いた。
先生は机から一冊の本を取り、黒板のほうへ歩いていった。
開こうとした拍子に、本が手から滑り落ち、床にぶつかって乾いた音を立てた。
何人かの生徒が笑った。
先生は何も言わなかった。顔を赤くして本を拾い上げ、何事もなかったかのように黒板に書きはじめた。
*
チョークが黒板を擦る音のなかで、ソラはまだ考えの中に沈んでいた。
ノートには、一文字も書いていなかった。
頭の中では、校門で起きたことが何度も何度も繰り返されていた。
内側に、ずいぶん違う何かを感じていた。
考えが、ひとりでに変わろうとしているような感覚だった。まるで内側から、何かが押してくるように。
椅子の上で、落ち着きなく身じろぎをした。休み時間を待ちながら。
書こうとしては書けないたびに、そわそわした気持ちが顔に出ていた。
先生が、怪訝そうに彼女を見た。
「ソラさん、大丈夫? 保健室に行く?」
*
自分の世界に迷い込んでいたソラは、はっと我に返った。
何人かのクラスメイトが、振り返って自分を見ていた。
「いいえ、先生、大丈夫です。心配しないでください」
先生は教壇から近づいてきて、ソラのノートを覗き込んだ。
「何も書いてないみたいだから。ソラさんが優秀なのは分かってるけど、宿題のためにも、ノートはちゃんと取っておかないとね」
「はい……分かりました」
ソラは、落ち着かない声で答えた。ほかに何と言えばいいのか分からなかった。まるで言葉を忘れてしまったかのように。
頭にあるのは、この教室から出ることだけだった。
*
そのとき、チャイムが鳴った。
張りつめた気持ちを救ってくれる音だった。
ノートを閉じ、急いでリュックに押し込み、戸口へ駆け出した。先生がその背中を見送っていた。
「すみません、通して! すみません!」
クラスメイトのあいだを、かき分けながら。
あまりに急いで階段を下りていたせいで、焦りが足を裏切った。
最後の一段を踏み外した。
そして一陣の風が――彼女自身の動揺から生まれた風が――許しも求めずに、彼女を床から持ち上げた。
廊下のバルコニーの手すりを越えて放り出し、ソラは宙を飛んで、裏庭にぶざまに落ちた。
*
胸をどきどきさせながら、すばやく立ち上がり、あたりを見回した。
誰にも、見られていなかった。
ほっと息をついた。
「どうして、あんなこと……」
埃を払いながら、呟いた。
「ちゃんと、制御しなきゃ」
空を見上げた。
何羽かの鳥が、裏庭の上をのんびりと飛んでいた。
そして、ひとつの考えが、稲妻のように頭をよぎった。
「……飛んだ。わたし、バルコニーから飛んだんだ……!
これを制御できるようになったら、もしかして……もしかしたら、本当に飛べるかも」
両手を頭にやり、深く息を吸った。そわそわした気持ちと千の考えが、いっぺんに頭の中を駆けめぐっていた。
「集中しなきゃ。この力の使い方を、覚えなきゃ」
風が、彼女のまわりでやさしく吹いた。まるで、それに応えるかのように。
ソラはそれを感じた。
そして分かった。この瞬間が、何か新しいことの始まりなのだと。
*
だが、声と足音が近づいてきた。
(だめ、見られたくない!)
慌てて、そう思った。
近くの木のほうへ走った。目立たないように。
見上げると、枝に小さな果実がいくつか下がっていた。
目を閉じた。集中した。
今度は、怖がらずに。落ち着いて、風を呼ぼうとした。
葉が、かすかに揺れた。
――果実がひとつ、落ちた。
(できた!)
叫び出したいのをこらえて、唇をぎゅっと結んだ。
*
誰にも見られなかった。
ソラは練習を続けた。小さな果実を、ひとつ、またひとつと落としながら、加減を磨いていった。
風が動くたびに、少しずつ自信がついていった。
「これじゃ、まだ足りない」
きっぱりと、自分に言い聞かせた。
「もっと上手くならなきゃ。いつか飛びたいなら、これを使いこなさなきゃ」
チャイムが鳴った。休み時間の終わりだった。
ソラは、満面の笑みで教室へ戻った。
飛んだのだ! ……まあ、それに近い何かだけれど。
でも、始まりには違いなかった。
*
それからの二時間、授業に集中しようとした。
だが頭にあるのは、風のことばかりだった。飛ぶこと。それを制御すること。
呼吸が乱れるたびに、力が内側から応えてくるのを感じた。
壁の時計は、少しも進まないように見えた。
外に出たかった。もっと練習したかった。
一分一分が永遠のように感じられた。まるで内側の何かが、授業よりも強いかのように。練習したい気持ちが、胸のところまで込み上げてきた。
結局のところ、彼女はまだ子どもだった。そして子どもというのは、何にだって夢中になる。
――それに、これは「何にだって」どころではなかった。
*
ようやく、一日の終わりを告げるチャイムが鳴った。
ソラにとってそれは、果てしない待ち時間のあとで、世界がまた動き出したようなものだった。
あまりの勢いで椅子から立ち上がったせいで、危うく滑りそうになった。
「時間だ!」
わくわくと、そわそわの混じった声で、そう囁いた。
窓から差し込む陽の光で、その目がきらきらと光っていた。
クラスメイトたちがのんびりと荷物をしまっているあいだに、彼女はもう、いつも戸口のあたりに固まっている生徒たちのあいだを、かき分けていた。
「すみません! 通して! ごめんなさい!」
*
顔じゅうに幸せを光らせて、廊下を走った。
行く手に現れる生徒の一人ひとりが、失われる一秒だった。
鞄をよけ、人の輪を回り込み、立ち止まらずに謝りながら。
「すみません! ごめんなさい! 通して!」
そして廊下の突き当たりで、出口の扉が彼女を待っていた。
開いたまま。
午後の風を、そこから流れ込ませながら。
――まるでその風もまた、彼女を呼んでいるかのように。




