42 静かな輝き
しばらく、誰も口をきかなかった。
あの奇妙な輝きは、まだ全員の記憶の中に漂っていた。
ソラが、そっと息をついた。
少し不安だった。だが、何もなかったかのような顔をしていた。
机の向こうでは、勇作が考えをめぐらせていた。
木の天板の上で、ゆっくりと指を動かしていた。自分の内側に、まだ届かない何かを探すように。
何年ものあいだで初めて――よく分からないものと、向き合っていた。
顔を上げた。
「聞かせてくれ、ソラ。気分はどうだ。……キアロコ、君は。何か感じるか」
*
ソラは、あの午後に奇妙な一瞬などひとつもなかったかのように座っていた。
微笑んだ。自然に。学校のことを訊かれたときと同じ落ち着きで。
「うーん、元気だよ。ちょっと疲れてるけど、何も感じない」
キアロコは彼女を見た。
それから、自分の手を見た。ゆっくりと開き、閉じた。何かを探すように。
何も見つからなかった。
すべてが普段どおりで、あるべき場所にあった。
「何も感じない」
話す前にもう何かを決めてしまっているような、いつもの声で、そう言った。
「ただ……すごく妙だった。前にあんなことがあった覚えはない」
*
黙っていたサリコが、椅子の上で座り直し、落ち着かない小さな笑い声をもらした。
沈黙に耐えられないのが、見るからに分かった。
「でもさ……病院のときと今日のと、そんなに違わないよね。違うのは目のことだけ。
だって、もちろん覚えてるもん。ソラが戦ってたとき――」
戦いを真似するように、両腕を振り回しはじめた。
「パンチでしょ、キックでしょ、ジャンプでしょ、すっごい風でしょ、それからドカドカドカって……うわぁぁっ!」
口で効果音を出し、手首をひねり、椅子から半分腰を浮かせた。
「……今日は、もちろんそういうのはなかったけど」
*
全員が、彼女を見つめていた。
呆気にとられて。黙ったまま。
言っていることにも――それ以上に、事務所の真ん中で披露されている再現にも。
エレベーターの中で急に歌い出した身内を見るような目だった。
サリコは、腕を回しかけたところで止まった。
一人を見た。もう一人を見た。
顔が、少し赤くなった。
「……え、何? わたし、何か変なこと言った?」
そう訊きながら、ゆっくりと元の姿勢に戻った。今しがたの五つの再現など、存在しなかったことにして。
*
勇作はため息をついた。
立ち上がり、娘のそばへ歩いていって、その髪を撫でた。
十八年間こういう場面に付き合ってきた父親の、辛抱強い愛情で。
「さあ、サリコ。今日はここまでにしよう。どのみち、みんな疲れている。明日は明日だ」
ソラが微笑み、椅子から降りて、伸びをした。
「うん、疲れた。わたし、帰るね。明日、授業あるし」
キアロコが静かに頷いた。
「ああ。もう行く」
*
戸口へ向かう二人を、サリコは見ていた。
その笑顔が、消えていた。
内側の何かが、まだ二人に帰ってほしくないと言っていた。
「え、ほんとにもう帰っちゃうの?」
自分が口にしていることに、ほとんど気づかないまま、そう言った。
「……一人になりたくなかったのに」
ソラが足を止めた。
振り返った。
彼女のほうへ戻ってきて、何も言わずに、抱きしめた。
「心配しないで」
サリコの肩に頬をのせたまま、そう言った。
「今度、いっしょにお泊まりしよう。でも今は授業がすごく多いの。少し暇になったら、サリコの家に行くね」
サリコは、少しだけ身を離して、彼女を見た。
その目が、少し光っていた。――午後のあの光とは違う光だった。これは、人の光だった。水の光だった。
「……ほんとに?」
「うん。サリコの家でやりたいこと、いっぱいあるもん」
*
勇作は、二人を見ていた。
そしてほんの短いあいだ――彼らしい、ごく短いあいだ――何かが胸の内で動いた。
自分で選んだわけでもないのに、いつの間にか娘が二人になっていた父親の、重さで。
二人のほうへ歩み寄った。
ソラの肩に、手を置いた。彼自身にも普段はなかなか許さない、やさしさで。
「そうだな、ソラ。いつでもうちに来なさい。勉強ならサリコが見てくれる。
遠慮はいらない。来たいときに、来ればいい」
ソラは頷いた。
差し出された愛情を断ることを、まだ覚えていない者だけが持つ、自然さで。
「うん、そうする。ありがとう。またね」
そう言いながら、戸口へ戻っていった。
*
キアロコは、何も言わなかった。
サリコを見た。勇作を見た。
そして、同じ落ち着きで、背後の扉を閉めた。
彼にとっては、沈黙もまた別れの挨拶だった。
――たぶん、痛みなしに口にできる、唯一の挨拶だった。
*
二人は並んで家へ歩いた。急がずに。
一歩ごとに、まだ胸の中に残っている嵐が静まっていくかのように。
この時間の街は、違う光り方をしていた。
街灯の光が濡れたアスファルトに映り、高いビルの上ではホログラムの看板が静かに浮かび、ときおりドローンが一機、自分だけの静かな拍子で空を渡っていった。
何があったとしても――夜は、美しかった。
ソラは何も言わずに隣を歩いていた。
ときどき空を見上げ、通りすがりのショーウィンドウを覗き、また歩き出した。
キアロコは横目で彼女を見ていた。
見張るためではなかった。
彼女がまだ彼女のままでいるのを、確かめるためだった。
そのたびに、確かめられた。
*
事務所では、勇作が静かに扉を閉めていた。
数秒のあいだ、机の前に立ったまま、さっきまでキアロコが座っていた場所の空気を見ていた。
それから、サリコを見た。
「妙だったな。あの目の輝き……」
低い声で、そう言った。
「頭の中で、ずっと引っかかっているものがある」
サリコはソファの肘掛けに腰を下ろした。
答える前に、少し考え込んだ。
「何なのかは、全然分からない。でも、ひとつだけ分かることがある」
父を見た。
「今日の光は、あの戦いのときとは色がまるで違った。今日のは普通の光。軽い光。
戦いのときのは……別物だった。何もかも壊したがってるみたいな。
――目の奥から、何かがこっちを覗いてるみたいな」
*
勇作はゆっくりと頷いた。顎に手をやった。
「そうか。……なら、そこは覚えておかねばならんな。見落としていい部分ではない」
深く息を吸った。
素早い手つきで、事務所の暖かい明かりをひとつ消した。
「わたし、できるだけ近くにいるようにする」
サリコが言った。
「邪魔にならない程度にね。……キアロコには、特に」
勇作は彼女のほうへ向き直った。
「ああ、そのとおりだ。キアロコは、ずっと普通でいたがっていた。誰にも知られたくなかった。私たちみんなの中に紛れて、隠れていた。
それが結局、私たちを救うことになった。私の仕事のことも、もう知っている。
今では彼の秘密を――彼が隠れていた当の相手が、知っているというわけだ」
*
言葉を切った。
大きな扉を見た。濃い色の木に、龍が彫られ、古い紋様が刻まれた扉。
何年も前に自分で取りつけさせたものだった。いつかあの青年がそこをくぐることになるなど、考えもせずに。
「きっと、こたえているはずだ」
そう言った。
「ただ、認めたくないだけかもしれん」
サリコは目を伏せた。
「うん。……あの人には、きついよね」
しばらく考え込んでいた。
それから、また顔を上げた。
「でも、それまでのあいだに――それぞれがどう動くのか、知っておかなきゃ」
勇作は彼女を見た。
そして、この子がこういう口調で話すときはいつもそうであるように、悟った。
娘はとっくに、ただの娘ではなくなっていたのだと。
口に出すまでもなく――重荷を分け合える相手に、なっていたのだと。
*
最後の明かりを消した。
龍の扉を開けた。
そっと、手で促した。
「まあ、いい。帰って休もう。明日は明日だ」
サリコは黙って頷いた。考え込みながら。
今はこのまま流しておくのがいちばんだと、心の底で感じながら。
――それでも内側の何かが、これはもっとずっと大きな何かの、始まりにすぎないと告げていた。
*
キアロコとソラは、家に着いた。
キアロコは持っていた荷物を玄関の隅に置いた。いつもの隅。考えもせずに、いつも置く場所。
台所へ行った。冷蔵庫を開けた。
オモリ・ベルデの缶を一本取り出し、調理台にもたれて、長く一口飲んだ。一瞬だけ、目を閉じて。
いつもより、うまかった。
居間へ出た。
――ソラが、飛びついてきた。
「お風呂入ろう!」
キアロコは危うくむせかけた。
「本気か」という顔で、彼女を見た。
「……本気か、ソラ」
「うん。ほら、明日授業あるんだから」
*
キアロコはため息をついた。
缶をテーブルに置いた。
逃げ道がないことは分かっていた。ソラはいまだに一人で風呂に入れるようにならなかったし、毎日のその作戦の正式な責任者は、彼だった。
――浴室の前を通りかかった者なら誰でも、衛生の習慣というより全面戦争の音だと証言するであろう、作戦の。
「分かった。行くぞ」
二人は浴室へ向かった。
そして閉じた扉の向こうで、叫び声が始まった。
「ソラ、動くな!」
「また目にシャンプー入れた!」
「お前が動くからだろ! サリコは文句言わなかったぞ!」
「わたしはサリコじゃないもん、やぁぁぁっ!」
戸棚に残っていた皿たちは――その日初めてじっとしていられることに感謝しながら――何も言わずにその騒ぎを聞いていた。
*
しばらくして。
体もきれいになり、乾いた服を着て、家が静かになったころ、二人は眠りについた。
ソラは、キアロコの隣に横になった。
自分の部屋ではなく――本来ならそうすべきなのに――彼の布団の端に、いつもの自然さで。
キアロコは何も言わなかった。
その戦いには、とっくの昔に負けていた。
ソラは窓の外を見ていた。
月が、くっきりと丸く、黒い空にのっていた。まるで誰かが、この夜のためにわざとそこに置いたかのように。
ソラは長いあいだ、何も言わずにそれを見ていた。
やがて、まぶたが重くなってきた。
目を閉じた。横向きに身体を丸めた。
そして、眠った。
*
キアロコは、眠らなかった。
目を開けたまま、そこにいた。天井を見ていた。
オモリの缶は、もうテーブルになかった。
濡れた服が浴室に掛かっていた。
家は眠っていた。
聞こえるのは、ソラの寝息だけだった。穏やかで、深い寝息。
――夜を信じることのできる者の、寝息。
彼は、違った。
彼は考えていた。考えて、考えつづけた。
そして、ずっと奥のほうで感じていた。
今夜、自分が自分のためにできることは、考えることだけだと。
考えるのをやめたら、誰か別の者が、代わりに考えはじめる。
目を閉じたら、何かが許しも求めずに、内側で動き出す。
だから、起きていた。
静けさを守りながら。
ソラを守りながら。
――たぶん、自分自身から、自分を守りながら。
そして外では、月が、ただそこにありつづけていた。




