41 飲みそびれるところだった茶
めまいが完全に引くまでには、ずいぶん時間がかかった。
アンジーニは、まだ木の下に座っていた。まだ無事だった幹に、背中を預けて。
波が、長く、ゆったりとした拍子で島に砕けていた。ほとんど、心をなだめるような拍子で。
風が髪を後ろへ持ち上げ、潮と、濡れた木の匂いを運んできた。
岸辺のどこかで、一羽の鳥が歌いはじめた。
別の一羽が、それに応えた。
*
ハラチは向かいから、彼女を見ていた。
脚を組んで座り、飲みかけの湯呑みを両手に包んで。
急かしはしなかった。
大きな真実が落ち着くには時間がいる――茶と同じように。それが分かるくらいには、長く生きてきた。
アンジーニは、手で顔をこすった。
深く、息を吸った。
「さて。聞かせてくれ」
湯呑みを芝の上に置きながら、老人が静かに言った。
「何が起きたか、どこまで覚えている」
*
彼女は考え込んだ。
記憶は、切れ切れに戻ってきた。ひどくはっきりしたものもあれば、曇った硝子越しに見せられたようなものもあった。
「岸辺にいたところからは、全部覚えてる」
そう言った。
「あなたの船が来たこと。あなたが落ちてきたこと。毒のこと……全部。あなたを家まで運んだことも覚えてる。
それから……もうひとつ。青い結晶。地面から拾ったの。きれいだった」
ほとんど気づかないまま、胸に手をやった。
もうそこにはない重さを探すように。
――あるいは、今はずっと奥のほうにある重さを。
*
ハラチは湯呑みを下ろした。
横目で、注意深く彼女を見た。
「そうか……」
低い声で、そう言った。
「では、戦いのことは覚えておらんのだな。叫んだことも。口にしたことも」
アンジーニは眉をひそめた。
「戦い? ううん、そこは覚えてない。何か……感じはするの。ぼんやりした何か。でも、ほとんど」
はっとして、彼を見た。
「あなたと戦ってたなんて、知らなかった。……じゃあ、わたしたちがこんなに汚れてるのは、そのせい?」
ハラチは、半分だけ笑った。
疲れた笑みだった。だが、本物だった。
「ああ。そのせいだ」
もう一口、すすった。
海を見た。
「それでも……少なくとも、お前が生きていてくれて、儂はほっとしている。全部は覚えていなくともな。
いずれ、思い出すかもしれん。思い出さんかもしれん。
思い出さなかったとしても……それはそれで、構わん。大事なのは、そこではない」
*
アンジーニは、自分の手に目を落とした。
動かした。指をひねった。手のひらを見た。
まだ自分のものかどうか、確かめるように。
何かが、完全には正しくない。それは分かっていた。
だが、頭を抱えたところで何も直らないことも、分かっていた。
だから、できるかぎり呑み込もうとした。
「分かった、ハラチ。戦いのこと、ごめんなさい。……その、本当にあったのなら。
あなたと戦うつもりなんて、なかったの」
ハラチは彼女を見た。
覚えてもいないことの責めを、今この娘は自分から背負ったのだ――それが、よく分かっていた。
そしてそのことが、彼女自身が気づいているよりもずっと多くを、彼女について語っていることも。
微笑んだ。やさしく。
――この一日で初めて、彼の顔に浮かんだ本物のやさしさだった。
「気にするな。それに……お前が始めたことでもないのに、謝るな。
覚えてもいない戦いのことなど、なおさらだ」
*
アンジーニは彼を見た。
そして、その朝目を開けてから初めて、顔からすっかり力が抜けた。
微笑んだ。自然に。ここ数時間のことなど、何もなかったかのように。
もう一口、茶を飲んだ。
海を見た。
「うん」
そう言った。
「ゆっくり、受け止めることにする」
*
ハラチが家のほうへ目を上げたのは、そのときだった。
――あるいは、家だったものの残りのほうへ。
さっきまでなかった何かが、その顔を過ぎった。
穴の開いた壁を見た。
崩れた屋根の瓦礫を見た。
裂けた木を。庭の窪みを。
そして、花を。
花を。
ひとつ残らず、潰れていた。
花壇は踏み荒らされ、花びらは雨の残した水たまりに浮かび、折れた茎が泥の上に散らばっていた。
花には、何ひとつ勝ち目がなかった。――戦いの、ちょうど真ん中にあったのだから。
ハラチはうなじをさすった。
目を伏せた。
そして、どう詫びればいいのかよく分からない者の、正直な気まずさで、ぼそりと言った。
「……お前の砦のことは、すまなかった」
*
ちょうどもう一口飲もうとしていたアンジーニの手が、口もとへ向かう途中で止まった。
瞬きをした。
微笑んだ。
そして不意に、腹の底から笑いが込み上げてきた。
「気にしないで。明日には直してもらうから。こういうのは、すぐ片づくの」
ハラチはまだ腑に落ちない顔のまま、壊れた砦を眺めて、ゆっくりと頷いた。
「ああ……そうか。なら、問題はないな」
アンジーニは彼を見た。
そして笑いが、さらに大きくなった。
湯呑みを芝の上に置き、両手を腰に当てて、もう堪えきれずに声をあげて笑った。
「砦? わたしの屋敷を、砦って呼んだの!? 頭のおかしいじいさんね!
どこの世界の話よ、これのどこが砦なの!」
ハラチは、まだどこか戸惑ったまま、あたりを見回した。残った壁を確かめるように。
「いや……かなり頑丈そうに見えるが」
「砦じゃないってば! 屋敷なの!」
アンジーニは笑いが止まらなかった。
「大きければいいってものじゃないのよ、おかしなじいさん!」
*
そして――笑いがようやく収まりかけたとき、その目が庭に止まった。
笑顔が、電気を切られたように消えた。
両手を下ろした。
眉をひそめた。
そして、声の調子が変わった。
「それに……見てよ。わたしの花が、全部どうなったか」
ハラチはその視線を追った。
そして、次に何が来るのかもう分かっている男の顔で、肩をすくめた。
「今ちゃんと見て分かったけど」
顎を上げて彼のほうへ向き直り、彼女は続けた。
「これは、間違いなくあなたのせいよ。全部、直してもらうからね」
「まあ……多少は、そうかもしれんが……」
ハラチは両手を上げた。
「あれをやったのは儂ではない。お前だ。狂ったように水の奔流をぶちまけおって」
「わたしは身を守ってたの!」
アンジーニが叫んだ。
「あなたがここに来なかったら、あんな変なものを連れてこなかったら、わたしが水をぶちまけることなんてなかったのよ」
*
腕を組んだ。
ぷいと顔をそむけた。
ソファから落ちたことを認めたくない猫のように、むくれて。
ハラチは、何と返せばいいのか分からずに彼女を見ていた。
彼女のほうは、その暇を与えなかった。
短い沈黙のあとで、老人はため息をついた。
「分かった、分かった」
やっとのことで立ち上がりながら、そう言った。
「さて、どうしたものかな。……儂の落ち度だ。島のことは、手伝おう」
アンジーニは力強く頷いた。まだむくれたふりをしたまま、腕も解かずに。
*
そして――そのすぐあとで。
遅れて戸口に着いた考えのような、ゆっくりとした速さで。
彼女の頭の中で、何かがかちりと鳴った。
彼が言ったことを、今初めて聞いたかのように。
目を見開いて、彼のほうへ振り向いた。
さっきまでむくれていた顔は、どこかへ消えていた。
目はまん丸で、きらきらしていた。――ほんの一瞬、まるで別人と入れ替わったかのように。
「待って……」
混じりけのない好奇心で、そう言った。
「わたしが、水の奔流をぶちまけてたって、どういうこと? わたしが? 本当に?」
*
ハラチは彼女を見た。
何も言わなかった。
言う必要がなかった。
ただ、分かっていた――前にもこれを見たことのある者の、冷たい確かさで。
木の下で自分の隣で笑い、湯呑みを手にして、足もとに潰れた花を散らしているこの娘は、自分の内に何を抱えているのか、まだこれっぽっちも分かっていない。
そして、その道は――ようやく、動きはじめたばかりなのだと。
*
そしてこの午後で初めて――いくつもの真実と、断片と、飲みそびれるところだった一杯の茶のあいだで――二人は、そろって笑った。
世界が変わりつつあっても。
島が壊れ、花が折れ、古い何かが彼女の内で目覚めてしまっていても。
海辺の、このひとかけらの芝の上には、まだ、人間らしいひとときのための場所が残っていた。
ハラチは、笑う彼女を見ていた。
その微笑みの奥――ずっと奥の、彼女には見えないところに、小さな影があった。
このひとときの静けさは続かないと知っている男の影だった。
いつかは、二人ともこの島を出なければならない。
そしてそのときが来たら、どちらも、もう同じではいられない。
だが、今はまだ。
海は続いていた。
陽が傾いていた。
アンジーニの笑い声が、波の音と混ざり合っていた。
まるで世界全体が――この一日の午後だけは、すべてを忘れていいと、二人に許してくれているかのように。




