40 ひとつの命と、ひとつの始まり
アンジーニは、何事もなかったかのように家へ入っていった。
穴の開いた屋根も、崩れた壁も、廃墟になった庭も、いつもの景色の一部だとでもいうように。
まっすぐ台所へ向かった。
やかんは床の上にあった。戦いのあいだに落ちて割れた皿のあいだに。
彼女はそれを拾い上げ、かろうじてまだ出ている蛇口の水ですすいだ。
それから、蓋の閉まった瓶の中で無事だった茶葉を探した。
すべてをこんろに載せ、待った。
*
外では、老人が庭に立ったまま、遠くから彼女が動くのを見ていた。
眉をひそめて。どうすればいいのか、よく分からないまま。
アンジーニが振り向いた。壊れた戸口の枠にもたれかかって。
からかうような笑みで、彼を見た。
「ねえ、入らないの? それとも、車椅子がいる?」
老人は面食らった。
ほとんど呟くような小さな声で、返した。
「車椅子……? 本気か」
衣を整えた。長いため息をついた。
そして家のほうへ歩き出した。
彼女は大して気にも留めなかった。もうまた台所の中を動き回っていた。今しがた起きたことの何ひとつとも噛み合わない、自然さで。
*
「わたしの名前は、アンジーニ」
奇跡的にまだ立っていた棚から、湯呑みを二つ取り出しながら、彼女が言った。
「あなたは?」
老人は、一瞬だけ足を止めた。
広間から彼女を見た。その落ち着きにどう反応すればいいのか、分からずに。
やがて、低い声で答えた。
「……ハラチだ」
そして言った。
「だが……なぜそれほど落ち着いていられる。
儂にも、これが見た目どおりのものなのかどうか、分からんというのに」
アンジーニは台所から横目で彼を見た。だが、答えなかった。
茶を淹れ終えて、机へ運んだ。
気にはなっていた――正直に言えば、とても。
だが、頭の中で絡まっていくその問いを、これ以上追うのはやめることにした。
もう、そんな気分ではなかった。
腰を下ろし、湯呑みを取って、飲みはじめた。
*
ハラチが、その向かいに座った。
落ち着いて、自分の茶を注ぎはじめた。
アンジーニは黙って、彼が湯呑みに砂糖を入れていくのを見ていた。
一杯。また一杯。また一杯。
ふつうの人間が入れるよりも、ずっと多く。
思わず笑いそうになった。
そのとき、老人が口を開いた。茶から目を上げもせずに。
「……断片の戦争だ」
アンジーニの手が止まった。
危うく、茶を手にこぼしかけた。
信じられないという顔で、彼を見た。
「戦争? 何の話をしてるの、じいさん。それ……どうかしてるわよ。
わたしは断片なんて持ってないし、身体に変な感じもしない。何を言ってるの?」
髪をかき上げた。
(このじいさん、頭おかしいんじゃないの?)
ハラチは、じっと彼女を見た。
動じなかった。
それどころか、十杯の砂糖を入れていたのとまったく同じ落ち着きを保っていた。
「儂の言うことには、お前が思う以上の重みがある、アンジーニ」
そして言った。
「お前はもう、知らぬうちに巻き込まれている。あとは、時間の問題だ」
*
彼女は黙り込んだ。
茶を飲みながら、横目で彼を見ていた。
家に人がいることに、慣れていなかった。
まして、あんな格好をした人間には。
老人の服には細かな裂け目があった。見たことのない紋様があった。この惑星のものとは思えない布だった。
千もの問いが口から出ようとしていた。だが、どこから始めればいいのか分からなかった。
もう一口、飲んだ。
ため息をついた。
「何も分からない。……落ち着いていきましょう」
*
そのとき、重く響く音があたりを揺らした。
戦いで傷んでいた屋根の一部が、ちょうど彼女の真上で剥がれ落ちた。
アンジーニは本能で反応し、一歩下がった。
――だが、足りなかった。
瓦礫が、彼女の上に落ちてきた。
そして、何も起きなかった。
かすり傷ひとつ。打ち身ひとつ。痣ひとつ、なかった。
木材と漆喰は彼女の上で跳ね、床に散らばった。
まるでアンジーニが、もう波にも動かせない岸辺の岩であるかのように。
呆然として、顔を上げた。
老人は、もう机の向かいにいなかった。
――外にいた。
木の下に座っていた。やかんと二つの湯呑みを、芝の上にきちんと並べて。
のんびりと。最初からずっとそこにいたかのように。一度も家に足を踏み入れたことなどないかのように。
*
アンジーニは、瓦礫をまだ足元に残したまま、走って外へ出た。
自分の上に落ちてきたもののせいだけではなかった。
――あの老人が、やかんと湯呑みを抱えて、彼女の目に動いたとも映らない速さで外へ出た。その、あり得なさのせいだった。
「ねえ、今の見た!?」
髪を振り乱し、顔を真っ赤にして叫んだ。
「全部わたしの上に落ちてきたのよ! なんで助けようとしなかったの!」
自分の腕を見た。服を見た。
分からなかった。
老人を見た。夕日でも眺めているような落ち着きで、まだ木の下に座っていた。
ハラチは、静かに彼女を見た。
深く息をついた。
そして、天気の話でもするように答えた。
「それでお前が傷つくことはないと、分かっていたからだ」
*
アンジーニは黙り込んだ。
後ろの瓦礫を見た。
何かが、噛み合わなかった。
「なんで分かるの。なんで、先に言ってくれなかったの」
老人はすぐには答えなかった。
木のほうへ近づいてくる彼女を見ていた。
茶をもう一口すすり、ため息をついた。
長く生きすぎて、悪い知らせを急がせることはできないと知っている者の顔で。
「簡単に言おう」
そう言った。
「ここで起きていることは、見た目より込み入っている。これから話すことは、呑み込みにくいかもしれん。だが、知っておかねばならん」
言葉を切った。
「お前は……もう、人間ではない」
*
アンジーニが目を見開いた。
眉をひそめた。
彼の向かいの芝の上に、湯呑みのそばに座った。
自分の湯呑みを取った。喉が渇いていたからというより、反射で。
ゆっくりと、一口すすった。
「……どういう意味。わたしは人間よ。どうして、そうじゃないなんて言えるの」
ハラチは、注意深く彼女を見た。
自分の言葉が、彼女が自分について信じてきたすべてを変えてしまうと分かっていた。
だが同時に、ほかに道がないことも分かっていた。
「あの力を手にした瞬間に起きたことは、お前の身体を変えただけではない。お前の本質を変えたのだ。
儂が話した断片――世界に散らばっているあれは、お前が想像しているよりもずっと強い。
そのひとつに触れたとき、お前の内側の何かが……変わった。
お前はもう、ただの人間ではない」
彼女は答えなかった。
その顔には、信じられないという思いと、もっと深い何かが混ざっていた。
――恐れに似はじめている、何かが。
「そんなの、筋が通らない」
そう呟いた。
「変な感じなんて、何もしない。身体だって変わってない。少なくとも、わたしに分かる範囲では」
ハラチは静かに頷いた。
「変化は、いつも目に見えるとはかぎらん、アンジーニ。鏡で見えるものではない。
だが、お前の本質は……もう変わった。断片が変えるのは、身体だけではない。魂もだ。
お前は……何か別のものだ。まだ、自分でも分からない何かだ」
*
アンジーニが立ち上がった。
芝の上を、あてもなく行ったり来たりしはじめた。
動くことで、呑み込もうとしているかのように。
海からの風が、その髪を後ろへ吹き上げていた。
「じゃあ、わたしは何なの」
彼の前で立ち止まって、そう言った。
「人間じゃないなら……わたし、化け物なの?」
ハラチも立ち上がった。
落ち着いた手つきで、衣を払った。
「化け物ではない。お前は、もっと古い、もっと大きな何かとの融合だ。時が経てば、気づきはじめる。
お前が内に抱えているのは、古い力だ。そしてその力が、お前を人間の境の向こうにある何かとつないでいる」
アンジーニは黙って彼を見た。
それから、目を伏せた。
まるで、ひとつの重荷が肩の上に落ち着いて――それを背負っていたことに、たった今気づいたかのように。
「……それで、これからどうするの」
さっきより低い声で、そう言った。
「わたしは、この力で何をすればいいの。分かりもしない、わたしを人間じゃなくする、この力で」
*
老人は彼女を見なかった。
海を見ていた。
波は来つづけていた。ひとつ、またひとつと。海だけが持つ、変わらなさで。
その声はやわらかかった。だが、揺らがなかった。
「まず、自分が何であるかを受け入れることだ。
道は楽ではない。だが、御する術を学ばねばならん。
そして何より――その力で何をするのかを、自分で決めねばならん」
言葉を切った。
茶をもう一口すすった。
「もう、戻る道はない」
*
アンジーニは答えなかった。
ただ、海を見ていた。
波が、重く、長い拍子で島に砕けていた。ほとんど儀式のように。
まるで大海が、彼女のまだ知らない何かを知っているかのように。
大きな木が戦いのあいだに失った木切れが、岸辺を漂っていた。
嵐のあいだに去っていた鳥たちが、まだ立っている木々へ戻りはじめていた。
その声が、水の音と、岸から潮の匂いを運んでくる風と、混ざり合っていた。
アンジーニは、頭がくらくらするのを感じた。
いきなりではなかった。ゆっくりと。
まるで世界が、穏やかな潮に揺れる、軽い舟になってしまったかのように。
こめかみに手をやった。
一瞬だけ、目を閉じた。
後ろで、海が鳴りつづけていた。
「……ちょっと、めまいがする」
ようやく、そう言った。波のささやきよりも、かろうじて大きいだけの声で。
そして海からの風が、それに応えた。
――言葉を使わずに。
自分がまだ問いかけていることすら知らない問いに、海が答えるときの、あの古いやり方で。




