38 古き声が囁いた
ふたたび、あの奇妙な力が――彼自身にも最後まで理解できていないあの力が――老人の身体を巡りはじめた。
まるで内側の何かが、許可も求めずに、もう充分だと決めたかのようだった。
身体が張りつめた。
痛みが、一瞬だけ消えた。
そして彼は、どうしてかも分からないまま悟った。
――この一瞬を使わなければ、次はない。
娘に埋められた泥の穴から、身を起こした。
雨が額を流れていた。
髪が顔に貼りついていた。
娘を見た。まだ目の前で構えを取っていた。濡れた胸の皮膚の下で、断片が光っていた。
そして、跳んだ。
*
今度の打撃は、違った。
正確だった。まっすぐだった。
そのひとつひとつが、彼女には読み取れない精度で身体を捉えにきた。
躱そうとした。だが、もう間に合わなかった。
ひとつが肩に入った。
ひとつが腹に入った。
ひとつが、胸から息を奪った。
老人が速くなったのか、彼女が遅くなったのか――それは定かではなかった。
だが二人とも、口には出さずに同じことを知っていた。
――天秤が、たった今ひっくり返った。
*
娘が悔しさに叫んだ。
上へ跳んだ。ふつうの人間の身体では届くはずのない高さまで。
そして宙から、地面へ向けて水の奔流を放ちはじめた。
一発ごとに、砲弾の威力で島を打った。
地面に穴が開いていった。
雨があり得ない方向へ降った。彼女が上空で生み出す流れに押されて。
芝の一部が沈んだ。まるで海がそれを取り返しにきたかのように。
老人は地上で躱していた。
転がった。
その身体の年齢よりも遥かに若い柔らかさで動いた。
外れた奔流のひとつひとつが、彼の背後に煙を上げる窪みを残していった。
そして――彼女が幾度か放ったあとで、老人が消えた。
彼女は瞬きをして、下を探した。
いなかった。
――背後だった。宙で。
その脚は、もう動きはじめていた。
蹴りが、うなじにまともに入った。
*
娘は石のように落ちた。
島の地面を一度打ち、跳ね、もう一度打ち、そして泥の上にうつ伏せになった。
その顔のまわりに、雨水が溜まっていった。
立ち上がろうとした。
老人は、すでにそこで待っていた。
腹に蹴りを叩き込んだ。抑えた力で――最大ではなく、殺してしまう力でもなく、だが息を奪うには足る力で。
そして彼女を見た。
もはや悲しみを隠しきれない、疲れた顔で。
(傷つけているのは、分かっている)
そう思った。
(だが、ここで止めねば……内側から壊れてしまう)
彼女が咳き込んだ。
血が唇を汚し、顔を流れ落ちる雨と混ざった。
老人はその首を掴んだ。
絞めるためではない。動きを止めるためだった。
そしてもう一度、地面へ叩きつけた。乾いた衝撃が、まわりの地を揺らした。
娘は、残っていたわずかな反射で片手を上げ、彼を掴もうとした。
指先が、老人の衣をかすめた。
――彼は、その手を取った。
そして素早く身体を回し、岸の木へ向けて投げ飛ばした。
その木は――古く、太く、彼女が生まれるよりも前からそこに立っていた木は――彼女もろとも二つに裂けた。
枝が落ちた。
樹皮が砕け散った。
幹が、内側に雷を通されたかのように、割れて開いた。
*
老人は立ち直る時間を与えなかった。
瞬きひとつで距離を詰めた。
顔を二度打った。左にひとつ、右にひとつ。
娘が口から血を吐いた。
その呼吸が、途切れはじめた。
――そして、彼は見た。
娘の胸の皮膚の下で光っていたものが、広がりはじめていた。
もう胸だけではなかった。
腕を伝って下りていた。
首を伝って上っていた。
頬にまで届いていた。
まるで断片が、それを抑える彼女の力がなくなったと見て、自分の意思で外へ出ようと決めたかのように。
――そして出ていく途中で、自分を受け入れたその身体を、ほどいていくかのように。
老人は、冷たい確かさで悟った。
残されているのは、数秒だった。
*
左手を上げた。
断片のものとは違う光が、そこに灯りはじめた。
もっと鈍く、もっと擦り減った光――だが、彼自身のものだった。
もうほとんど残っていない、彼の力だった。
それを右手と合わせた。
そして光る両手を、娘の胸の上に置いた。
「うまくいってくれ……」
息を切らしながら、そう囁いた。雨が腕に降りかかっていた。
目を閉じた。
そして――引き出した。
両手で、娘の胸から断片の力の一部を引き抜いた。
すべてではない。すべてを抜くことはできなかった――そんなことをすれば、彼女は死ぬ。
残りを、壊れずに背負える分だけ。
「この荷の、いくらかを降ろしてやる……」
彼女へというより、自分自身へ向けて、そう言った。
空気が濃い青の光で満たされた。まるで海そのものが、二人の上に集まったかのように。
娘が震えた。
泥の上に横たわったその身体が、最後にもう一度だけ揺れた。
*
そして、その唇が動いた。
だがそこから出てきた声は、娘のものではなかった。
別の声だった。
もっと古く、もっとゆっくりとした声。
長いあいだ、何かを――たとえ一言でも、たとえ借りものの一瞬でも――言える時を待ちつづけていた声だった。
「会えてよかった、老人よ……」
穏やかに、その声が言った。
「手遅れになる前に、契約を築き直せるといいのだが……」
娘の顔に、短い微笑みが浮かんだ。
だがその上に膝をついていた老人は――両手をまだ光らせたまま――疑いようもなく分かっていた。
その微笑みは、彼女のものではない。
光が、消えた。
娘は濡れた芝の上に、意識を失って倒れた。
*
老人は、しばらく動くことができなかった。
ゆっくりと娘の身体から離れた。
その隣に、仰向けに倒れ込んだ。
手が震えていた。
胸が焼けていた。
そして、さっきまで猛り狂って落ちていた雨が、やわらぎはじめた。
雨粒はもう、叩いてはいなかった。――ただ、落ちていた。
島を打っていた波が、静まりはじめた。
海が、ゆっくりと呼吸を取り戻した。
島全体を覆っていた黒雲が解けはじめ、その裂け目から――ずっと隠れていた本物の空が見えはじめた。
老人は空を見上げた。
呼吸が短かった。
濡れたその顔が、雨のせいなのか、別のもののせいなのかは、分からなかった。
「……よかった、か」
かろうじて聞き取れる声で、そう呟いた。
「ずいぶん簡単に言ってくれる」
微笑んだ。
そして、意識を手放した。
我が読者よ、姿を見せなくなってから千年は経ったように感じる。これからの未来の書を読むためには、お前の『グリブリウス(魔導書)』をしっかり手に握りしめておいてくれ。意味が通じればいいんだがな。
影を踏むとき、魂は分かたれ、幾千もの宇宙の魔法を感じる。
『我が第二の精霊』へようこそ。




