37 魂が目覚めるとき
家の中の沈黙が、重くなった。
広間の真ん中に立っていた娘の身体を、悪寒が走り抜けた。
内側の断片が、誰のものでもないエネルギーで燃えはじめていた。彼女のものでも、空気のものでも、この島のものでもない何かで。
その目が、完全に濁った。
膝から床に崩れ、荒く息をついた。
呼吸が乱れていった。そのまわりで、猛々しい力を孕んだ気配が震えていた。
――どこで弾けるかを探している、嵐のように。
*
外で、空が応えた。
雲が島の上で暗くなりはじめた。厚く、低く。
そして家の真上で渦を巻いた。まるで、はるか上空の何かが、こちらに気を向けたかのように。
さっきまでいつもの穏やかさで岸を打っていた海が、その音を変えはじめた。
波が高くなった。重くなった。荒くなった。
長椅子で腕を組んでいた老人は、その光景を眉ひとつ動かさずに見ていた。
その目には理解があった。そして同時に、決意があった。
何が起きているのか、正確に分かっていた。
そしてこの次に何が来るのかも。
*
突然、娘が叫び声をあげた。
怒りと、混乱の叫びだった。
自分の内側で起きていることを、認識できない者の叫びだった。
筋肉が張りつめた。
その動きが、不規則になった。
そして瞬きひとつのあいだに――もう老人の目の前にいた。凄まじい速さだった。
拳は力の奔流に包まれ、叩き込まれる寸前だった。
老人は、その場から動かなかった。
静かに、息を吐いた。
片手を上げた――かろうじて見えるかどうかの速さで。
そして、その胸に確かな一打を当てた。
*
衝撃は、凄まじかった。
轟音が家じゅうに響いた。
娘は弾丸のように吹き飛び、家の壁を突き破っていった。瓦礫の渦を引き連れて。
壁が崩れた。
梁が悲鳴をあげた。
そして台所では――まるで世界が一瞬だけ物理の法則を忘れてしまったかのように――食器棚から皿が外れ、一枚、また一枚と床へ落ちていった。
割れた陶器の、ばかげた協奏曲だった。
二部屋向こうで起きていることには、まったく無関心なまま。
埃が宙に舞い上がった。
外の地面に、陥没ができていた。娘が乱暴に落ちた、その場所に。
*
老人が立ち上がった。
落ち着いた手つきで衣を整えた。
戦いの支度ではなく――市場まで歩いていく前のような手つきで。
出口へ向かった。娘が壁に開けた穴を抜けながら。
倒れている彼女を見た。その身体は、まだ断片の力で震えていた。
「まだ、始まったばかりだ……」
そう囁いた。
頭上では、黒い雲がさらに広がっていた。
そして最初の一滴が落ちた。
それから、二滴目。
それから、千。
雨は、警告のように降りてきた。
*
娘がすばやく身を起こした。
その目は決意で燃えていた――完全には彼女のものではない決意だった。今その内側に棲んでいるものから、借りてきた決意だった。
言葉はなかった。
そのまま、構えを取った。
断片は彼女を速くした。強くした。
だが、安定させはしなかった。
もう一度、跳んだ。
拳。蹴り。
打撃の起こす風が、雨を切り裂いていった。
老人はそのひとつひとつを正確に受け止めた。以前にも同じことをしたことのある者の、辛抱強い手際で。
――それは戦いではなかった。
教えだった。
だが娘は諦めなかった。
魂が焼けているかのように戦っていた。
二人が起こしている嵐は、外だけのものではなかった。断片に応えた空だけのものではなかった。
――内側にもあった。彼女の中で暴れ、出口を見つけられない何かが。
*
老人がすばやく跳び込み、その首に蹴りを叩き込んだ。
娘は濡れた芝の上を何メートルも転がった。戸惑いながら。
立ち上がり、構えを取り、そしてまた跳んだ。
二人は打ち合いはじめた。雨が追いつけないほどの速さで。
拳。蹴り。回転。
一撃ごとに、島全体が鳴った。
ますます高くなる波が、岸の岩を叩いていた。まるで海そのものが、この戦いに混ざろうとしているかのように。
足元の砂が震えた。
風など吹いていないのに、木々が揺れていた。――中心で戦う二つの身体から出ている力だけで。
*
娘が島の右手へ下がった。
両手を海へ向けて伸ばした。
そして、海が応えた。
岸から水の柱が立ち上がり、ねじれ、そして幾本もの太い腕に分かれた。巨大な蛸の触腕のように。
腕が老人へ向かって進み、地面を、空気を、行く手にあるすべてを叩いた。
老人は身体を回して一本目を躱した。
二本目は屈んで抜けた。
三本目が肩をかすめ、濡れた紙のように衣を裂いた。
距離を詰めようとした。
だがあと一歩というところで、触腕が彼女のまわりに巻き戻り、その身体を囲む盾を形づくった。
生きた盾だった。呼吸をし、回転し、彼女が考えるまでもなく彼女を守る盾だった。
*
老人が足を止めた。
息をついた。
そしてこのとき初めて、その顔を何かが過ぎった。
恐れではなかった。
疲れでもなかった。
――驚きだった。
(ほう……)
顔を伝う雨のなかで、そう思った。
(この娘、ただ者ではないな)
(型がある。断片が力を与えているにしても――この娘自身が、戦い方を知っている)
(もともと持っていたものを、増幅させたのだ)
(……何者なのだ、この娘は)
頭上の黒雲が、閉じきっていた。
稲妻が空を裂き、二人を半秒だけ照らし出した。
雨が強くなった。何もかもを濡らしていった。
芝を。家の瓦礫を。そして、すでに水と混ざりはじめていた血を。
*
老人は、それ以上考える余裕を自分に許さなかった。
娘へ向かって走った。
触腕の渦をどうにか突き抜け、その腹に蹴りを叩き込んだ。
彼女は身体を折って後ろへ下がった。
水の守りが、一瞬だけ崩れた――そしてその一瞬を、老人は使った。
だが顔を上げたときには、娘はもう来ていた。
怒りに歪んだ顔で跳びかかり、顔面めがけて拳を続けざまに放ってきた。
老人は慌てずにひとつずつ躱した。
それでも、疲れが染み出しはじめていた。
左へひとつ。
右へひとつ。
雨が手に、腕に、足に降りかかり、動くたびに水が跳ねた。
老人が打ち返そうとした。腹をまっすぐ狙って。
――彼女が、掴んだ。
両手で、宙にあるその拳を掴み取った。
そして彼が予期していなかった力で、身体ごと回し、地面へ叩きつけた。
*
衝撃は、凄まじかった。
芝がへこんだ。
土が割れた。
老人の身体のまわりに穴が開き、彼はそこに半ば埋もれたまま、顔に雨を受けて、上を見ていた。
そしてその上に、彼女がいた。
顔と顔を、向かい合わせて。
うつろな目。
荒い呼吸。
濡れた服の下で、断片が光っていた。まるで海そのものが、その胸から入れてくれと乞うているかのように。
*
老人は肋骨を感じた。
痛んだ。
この身体にどれだけ残っているのか、分からなかった。
だが、別のことだけは恐ろしいほどはっきりと分かっていた。
――このまま何もしなければ、粉々になるのは島だけではない。
この娘の身体も、同じことになる。
御されていない断片は、外にあるものを壊すだけでは済まない。
内側から、それを抱えている者そのものを壊していく。
(何とかせねば)
泥の下で拳を握りしめながら、そう思った。
(遊んでいる場合ではない)
*
一瞬だけ、目を閉じた。
そして、記憶が来はじめた。
ぼやけた、途切れ途切れの記憶だった。求めてもいない映像だった。
焦点の合わない顔。
聞き覚えのない声。
ひとつの廊下。ひとつの光。そして、別の生で自分のものだった痛み。
自分でも完全には理解できていないもの。
だが、身体のほうは知っているもの。
歯を食いしばった。
その上では、雨が降りつづけていた。
娘は、消えた目で彼を見下ろしていた。次の動きを待ちながら。
――このまま終わらせるわけにはいかない。
あいつら全員と向き合うのがどれほど愛おしいか、お前らには分からないだろう。まあ、ムカついて頭がおかしくなりそうな日もあるけどな。それでも、一人ひとりが愛おしくてたまらないんだよ。




