32 まだ俺たちをつなぐもの
「おい、勇作さん」
冗談めかして、キアロコが言った。
「なんでこの子は小さい切り傷ひとつで、俺は剣で串刺しなんだ。おかしいだろ」
「ああ、それか。……男同士のことだ」
笑いながら、勇作が答えた。
キアロコは腕を組んで、不機嫌そうに彼を見た。
まるっきりの冗談でもなかった。あのあと、何日も病院に入っていたのだから。
それでも全員が笑った。サリコも笑みを浮かべて、その輪に加わった。
「女の子は繊細なの。ね、キアロコ?」
みんなが笑った。
*
そのとき、扉が鳴った。
静けさが、一瞬だけ戻ってきた。
「あ、ごはんだ」
サリコが言った。
「どうぞ」
女の子がひとり、ワゴンを押して入ってきた。
執務室の隅の机まで歩いていき、料理とお茶を慎重に並べ、そして丁寧に挨拶をして、全員の顔を見た。
最初に返したのは、ソラだった。
「ばいばい。気をつけてね」
ほかの三人が返したくなかったわけではない。
ソラが、いちばん口を開くのが早かっただけだった。
女の子は微笑んで、入ってきたのと同じ扉から出ていった。
*
ソラは食べはじめようと、机のほうへ歩いていった。
そして横目で、まだ立ったまま考え込んでいるキアロコを見た。
「ねえ、兄さん」
そう言った。
「なんでそんなに汚れてるの?」
誰も、何も言わなかった。
三人が、互いの顔を見合った。
ソラが眉をひそめた。
サリコを見た。勇作を見た。もう一度、キアロコを見た。
そしてその頭の中で、何かがつながりはじめた。
「まさか……戦ってた相手って、わたし?」
三人が顔を見合わせた。
誰も答えなかった。だが答えは、その顔に出ていた。
ソラが目を伏せた。
「ごめんね、兄さん……わたし、何も覚えてないの」
「いいんだ、ソラ」
落ち着いた声で、キアロコが言った。
「気にするな。ゆっくり食べろ」
「うん……でも兄さん、お風呂に入って、着替えたほうがいいよ」
キアロコが、戸惑ったように彼女を見た。
「ソラ。別に変だとは言わないけどさ……自分が今どんな格好してるか、気づいてないのか?」
ソラは自分の服に目を落とした。
腕を見た。ズボンを見た。
どこもかしこも汚れて、破れて、埃をかぶっていた。
「気づかなかった」
肩をすくめて、そう言った。
「まだちょっと、ぼんやりしてるの。頭がくらくらする。……きっとお腹がすいてるからだよ」
全員が吹き出した。
*
キアロコもようやく腰を下ろした。
寿司とチキンを食べはじめた。
サリコがグラスをふたつ取って、オモリ・ベルデを注いだ。ソラにひとつ、キアロコにひとつ。
「ありがとう」
二人が同時に言った。
サリコは微笑んで、急須を持って父親の机へ歩いていった。
湯呑みをふたつ。ひとつは彼に、ひとつは自分に。
「ありがとう」
そう言って、勇作がひと口すすった。
しばらくして、食器の音が執務室を満たしはじめた頃、キアロコが箸を置いた。
黙ったまま、ソラの治った手を見ていた。
昨日の夜からずっと抑えつけていた何かが、こみ上げてきた。
立ち上がって、彼女のほうへ歩いた。
「信じられない!」
こらえきれずに笑みを漏らしながら、そう言った。
「無事なんだな!」
迷わず、強く抱きしめた。
ソラは驚いて、かろうじて腕を上げるのがやっとだった。
「兄さん……つぶれちゃう。今日どうしたの。変だよ」
「生きてるんだ、ソラ」
震える声で、彼が言った。
「ここに、俺と一緒に。……それだけでいいんだ。ずっと一緒だ」
ソラは、潤んだ目で彼を見た。そして微笑んだ。
「うん。そうだね」
そして寿司をひとつ、口に放り込んだ。
キアロコが小さく笑った。
彼女は口いっぱいのまま彼を見て、こう訊いた。
「それで……わたし、本当に大丈夫なの? 病院で何があったの?」
キアロコを、サリコを、勇作を順に見た。はっきりした答えを探すように。
「大丈夫どころじゃない」
その目を見ながら、キアロコが答えた。
「お前の身体は……完全に健康だ。傷ひとつない」
ソラは、すっかり元どおりになった自分の手を見た。
そして、少しだけ晴れた顔で微笑んだ。
「よく分からないけど……元気でよかった」
キアロコは、もう一度彼女を抱きしめた。
「何があっても離さない。何が起きても……ずっと一緒だ」
*
その瞬間、大きな木の扉が、断りもなく開いた。
白いベストに、白いズボン。髪は尖っていた。威圧感のある男だった。
全員が、一瞬だけそちらを見た。
男は一歩、中へ踏み込んだ。
食事をしているソラとキアロコを横目で見た。だが何も言わなかった。
無視した。
「おはようございます」
朝からお茶も珈琲も口にしていない人間の、乾いた事務的な声だった。
「おはよう」
同じ落ち着きで、勇作が答えた。
男はネクタイを直し、話しはじめた。
「いくつか問題があります。カメラの記録が消されました。病院で何が起きたのか、こちらでは何ひとつ把握できておりません。
ただ、駐車場が滅茶苦茶になっていること、建物の一部も同様であることは確認しております。
調べた限りでは、正直なところ、何が起きたのかについての情報がまったくありません。記録についても、誰が入って消したのか不明です。
これを起こした者たちが、証拠を残さないために自らシステムへ侵入して消したのかどうかも、判断がつきません。
……理解できないのは、なぜそんなことを、病院の駐車場でやる必要があったのかということです」
勇作は、もうひと口お茶をすすった。
ほかの三人は黙っていた。誰も、何も言わなかった。
「ああ、分かった。報告をありがとう」
落ち着いた声で、勇作が答えた。
「病院の中に問題は? 患者は」
「患者は全員ご無事です。破壊されたのは一室と、壁の一部のみ。
……その部屋にいた患者についても、あまり情報が出てまいりません」
勇作は、隅にあるデジタル画面へ目をやった。病院のカメラ映像が映っていた。
深く息を吸った。
「分かった。では、問題がないのなら――警察と調査のほうには、できるだけ早く手を引くよう伝えなさい。
修繕については、いちばん近い建設会社と話をして、駐車場の整理から始めさせろ。
保険が渋るようなら、車はこちらで全額支払え。
声も、疑いも、大きくするな」
男が、右手の拳を握りしめた。
顔は、上げないままだった。
「しかし会長、それをしてしまいますと……」
勇作が、それを遮った。
「命令だ。質問ではない」
そして、その目をまっすぐに見た。
ソラとキアロコは凍りついた。
何も言わなかった。この会話が自分たちのものではないと、分かっていた。
男が頭を下げた。
「……かしこまりました。申し訳ありません。病院へ戻って、書類を整えます」
*
サリコが机の陰から出てきた。微笑みながら、彼のほうへ歩いていった。
「はい、これ。車の損害と、病院と、駐車場の書類。全部そろってる。
建設会社に渡す小切手も、もう署名済み。
それから、万が一手に負えなくなったときのために、全部控えも取ってあるから。
……ぜんぶ内密にね。来てくれてありがとう。いつも助かってる。気をつけて帰ってね」
男はサリコの手から書類を受け取った。
「ありがとう、サリコさん。……君には敵わないな」
短く微笑んで、そう言った。
そして、出ていった。
誰も何も言わなかった。
誰も、その男の名前を訊かなかった。
当たり前のことだった――民間の会社であり、外部の人間の前で名前を伏せるのもまた、当たり前のことだった。
*
勇作が、もうひと口お茶をすすった。
「なあ、サリコ」
顔を上げずに、そう言った。
「その書類、いつから持っていた」
サリコはゆっくりと自分の湯呑みまで歩いていった。
ひと口すすった。
そして父親を見た。
「だって、家に帰るとき、病院に寄ったんだもの。損害を記録して、看護師さんたちとスタッフが無事かどうかも確かめて。
それから、時間を無駄にしないように書類を整えておいたの。
……お父さんがどういう人か、知ってるからね」
二人にしか分からない笑みを、父親に向けた。
キアロコとソラには、何ひとつ理解できなかった。
ただそこにいて、食べながら、互いの顔を見合わせていた。
サリコと勇作が、何事もなかったかのようにお茶を飲んでいるあいだ。
『我が第二の精霊』を読んでくださっている皆様、本当にありがとうございます。
レビューや星評価を残してくださった方々にも、この場を借りて心より感謝申し上げます。
皆様の温かい応援があるからこそ、皆様に恥じない作品をお届けしたいと、
毎日、泥臭く、全力で書き続けていけます。
すべては、いつも支えてくださる皆様のためです。
覚えていてください。
ほかの世界にも、命はあるのです。
ただ、正しい目でそれを見ることを、覚えればいいだけなのです。




