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31 記憶の沈黙




朝が、光りはじめていた。


執務室に置かれた花から、露の匂いが立ちのぼっていた。


大きな窓から、暖かな光が差し込んでいた。金色で、急ぐことのない光だった。


窓の外では、鳥の声が聞こえていた。


昨日の夜など、何ひとつ起きていなかったかのように、夜明けに挨拶をしていた。


キアロコはソファに座っていた。


その隣で、ソラはまだ眠っていた。


その髪を、ゆっくりと撫でていた。


眠ってはいなかった。


おそらく、一晩じゅう眠っていなかった。



   *



執務室の扉のひとつが開いた。


サリコが使ったほうではなく、もう一方の扉だった。


勇作が入ってきた。


ソファに座っているキアロコを見た。


最初は、何も言わなかった。


数歩だけ歩き、机の向こうの椅子に腰を下ろして――それから、ようやく口を開いた。


「おはよう、キアロコ。昨日より、いい顔をしている」


キアロコは彼を見なかった。


ソラの髪を撫でたまま、視線を少女に据えたままで答えた。


「おはよう。……勇作さんも、昨日より落ち着いて見える」


勇作は、声を出さずに少し笑った。


そして立ち上がり、執務室の花のほうへ歩いていった。


花のそばにあるいくつかのボタンに触れた。


水が、流れはじめた。


それから、また椅子に戻って座った。



   *



大きな扉が、勢いよく開いた。


濃い色の木でできた扉だった。彫り込まれた紋様があり、上のほうには竜がいた。


サリコだった。


肩で扉を押し開けていた。脇に書類を抱えて、まるで仕事に遅刻してきたみたいに。


慌ただしく入ってきて、机に座っている父親を見て、それから右へ顔を向けた。


そして、そこにいる二人を見つけた。目を覚ましているキアロコと、ソファの上のソラを。


二人のほうへ歩いてきた。


「どう?」


少女を見ながら、そう訊いた。


「まだ起きないの?」


「まだだ」


キアロコが答えた。


サリコはしばらく、二人を黙って見ていた。


それから机へ近寄り、父親の頬に軽く口づけをして、卓上のボタンをひとつ押した。


「お茶と、何か食べるもの、持ってきてもらうね」


そして言った。


「きっとお腹すいてるでしょ」


扉の向こうで、柔らかな呼び鈴の音がした。


サリコはまたソファのほうへ戻り、その肘掛けに腰かけた。ソラのそばに。


キアロコは、まだその髪を撫でていた。



   *



そして、ソラが目を開けた。


ゆっくりと。


自分がどこにいるのかも、まだ起きる価値があるのかも、確かめきれていない者のように。


最初に天井を見た。


それから顔を横へ向けて、キアロコを見た。


「おはよう」


低い声で、彼が言った。


「大丈夫か」


ソラは、何も言わずに頷いた。


キアロコがその背中に腕を回し、ソファに座らせてやった。


彼女は素直に身をあずけた。まだ半分眠ったまま。まだ、何も呑み込めていないまま。


サリコが近づき、その目の高さにしゃがんだ。


「よくなった?」


やさしくそう訊いた。


「どこか痛いところ、ある?」


ソラは、一秒だけ考えた。


自分の腕を見た。


自分の手を見た。


指を動かしてみた。


「ううん」


そして言った。


「どこも痛くない」


サリコが、ほっとしたように微笑んだ。


キアロコは、彼女が目を開けてからずっと止めていた息を、ようやく吐いた。


机のほうから、勇作がじっとその様子を見ていた。


「ソラ」


そう呼んだ。


「戦いのあいだに自分が言ったことを、何か覚えているか」


ソラが眉をひそめた。


知らない言葉で話しかけられた子どものような目で、彼を見た。


「戦いって……なんのこと?」


沈黙。


キアロコとサリコが、一瞬だけ顔を見合わせた。


ふざけているのではなかった。演じているのでもなかった。


本当に、何の話をされているのか分かっていなかった。


「戦っていたときだ」


落ち着いた声で、勇作が続けた。


「君はこう言った。『千年ぶりだ……お前に会うのは』と。……心当たりは」


ソラは首を横に振った。さっきよりも、もっと戸惑った顔で。


「そんなこと、覚えてない」


そして言った。


「わたし、誰と戦ってたの? それに……病院は、どうなったの? ベッドにいたのは覚えてる。兄さんが手を握ってくれてたのも。……それだけ」


また、沈黙が落ちた。


キアロコが、一瞬だけ目を閉じた。


この子は知らない。


自分が死んだことを知らない。


断片が身体の中に入ったことを知らない。


うつろな目で街の空を飛んだことも、その口から古い何かの声が出ていたことも、知らない。


そして、彼がこの子と向かい合わなければならなかったことも。


彼にとっては、人生で最悪の出来事だった。


彼女にとっては、何もなかった。


サリコが横目で彼を見た。


キアロコの顔を見た。


そして、彼が何を考えているのかを理解した。



   *



勇作が、急ぐことなく椅子から立ち上がった。


「ソラ。少しこちらへ来なさい。確かめたいことがある」


ソラは不安げに彼を見た。


そしてキアロコを見た。許しを求めるように。


彼は、ゆっくりと頷いた。


ソラはソファから立ち上がり、机のところまで歩いていった。


勇作が引き出しを開け、小さなナイフを取り出した。柄が黒く、刃はきれいに磨かれていた。


「痛むかもしれない。……痛まないかもしれない」


そして言った。


「確かめたいだけだ。いいか」


ソラは手を差し出した。


これから何をされるのかを知らない子どもの、あの信じ切った顔で。


勇作は慎重に、その掌へ浅い切り傷をつけた。


ソラは、瞬きひとつしなかった。


「何も感じなかった」


手を差し出したまま、その切り傷を見つめて、そう言った。


そして三人の目の前で、掌の皮膚がひとりでに閉じはじめた。


傷口の縁が寄っていった。


血が止まった。


そして痕は、最初から何もなかったかのように消えた。


ソラが目を見開いた。


「痛くもなかったし……何も残らなかった」


ソファのところで、キアロコがゆっくりと立ち上がった。


ソラの手を見た。


そして、自分の手を見た。


自分の手には、まだ戦いの擦り傷が残っていた。


削れた皮膚。手首の痣も、まだ引ききっていなかった。


勇作が、考え込むように顎を撫でた。


「この再生の速さは……人間のものではない。断片が、この子の中で活きている」


まだ自分の掌を見つめたまま、ソラが訊いた。


「……ただの、切り傷だったんだよね?」


勇作は彼女を見た。


昨夜サリコを抱きしめた父親とは、何ひとつ似ていない真剣さだった。


長いあいだ聞くことを恐れていたものが、目の前で裏づけられていく――そういう男の真剣さだった。


「違う、ソラ。今のは試験だ。君の身体は変わった。……もう、以前の君ではない」


少女は手を下ろした。


キアロコを見た。それからサリコを見た。それからもう一度、勇作を見た。


理解できていなかった。


そして目を覚ましてから初めて、その顔に怯えが出た。



   *



サリコは、その様子をじっと見ていた。


それから父親を見た。


それからキアロコを見た。


そして彼女の中で、まだ声に出す勇気の出ない問いが、かたちを持ちはじめていた。


もしソラが、何ひとつ覚えていないのなら。


――あの子に、何が起きたの。


――あの身体の中にいたのは、誰なの。


――そしてどうして、記憶をひとつも残さずに、消えたの。

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