30 魂の亀裂
街は眠っていた。静かで、冷たかった。
その大通りのひとつを、三つの影が歩いていた。
淡く灯りをともした、大きな建物へ向かって。
キアロコは、足を引きずるようにして歩いていた。肩にソラを担いだまま。
その隣をサリコが歩いていた。暗い顔で、心配そうに。
入口の前で、サリコが一度、足を止めた。
二人を見た。埃まみれのキアロコと、その肩からぶら下がっている少女を。
そして、笑おうとした。
いつも冗談のほうから出口を見つけてしまう、あの調子で。
「ねえ、大丈夫? 二人とも、なんか……壊れてるみたいだけど」
気づかれまいとする笑みを、手で口元を覆って隠しながら。
誰かが乗ってくれるのを、待ちながら。
キアロコは息を切らしたまま、ほとんど彼女を見なかった。
「……大丈夫だ。ただ、疲れてるだけだ。俺のことは心配するな」
サリコの笑みが、下がった。
胸に結び目を抱えたまま、視線をソラへ戻した。
「ソラは?」
「消耗してる。戦いのあいだに、この子の中で何かが変わった。休ませる必要がある」
硬い声で、キアロコが答えた。
サリコはそれ以上何も言わず、頷いた。
誰も、冗談には乗らなかった。
そんな体力は、誰にも残っていなかった。
*
執務室
二人は中へ入った。
足音の反響が廊下に響いた。勇作の部屋に着くまで、ずっと。
暖かく、静かな部屋だった。
勇作は机の脇に立って待っていた。
三人が入ってくるのを見て、注意深くその様子を見ていた。
キアロコは慎重にソラをソファへ下ろした。
だがそうした拍子に、二人ともそのまま崩れ落ちた。
「ソラ! ソラ、起きて!」
少女の脇に膝をつき、サリコが動転して叫んだ。
勇作が、落ち着いた足取りで近づいた。
「大丈夫だ、サリコ。無理をしすぎて気を失っているだけだ。危険はない。休ませてやればいい」
「でも……こんなふうに倒れるのが、普通なの?」
落ち着かないまま、彼女が言った。
勇作が頷いた。
「普通だ。限界を越えたんだ。明日には目を覚ます。……そうしたら、話をしよう」
サリコは、まだ動揺したまま黙り込んだ。
そして、妙な表情で勇作を見た。
「お父さん……ソラ、戦ってるあいだに、変なことを三つ言ったの」
「どんなことを」
「『千年ぶりだ……お前に会うのは』」
そして続けた。
「『『天界戦争』が……始まった……お前のせいだ』」
小さな声で、記憶をたどりながら。
「それから……『平和は、もう、ない。何もかも、壊れてしまった。戻さねばならない……すべてが崩れ落ちる前に』って」
部屋に、沈黙が落ちた。
聞こえるのは机の上の時計と、ソファの上のソラの、ゆっくりとした呼吸だけだった。
勇作が眉をひそめた。
それだけだった。余計な仕草ひとつなく、急いだ言葉ひとつなく。
「……『六天の契約』を、か」
低い声で、そう言った。
サリコが彼を見た。
「え?」
そんな言葉は、ひとつも出ていなかった。
「……いや。何でもない」
そして続けた。
「その言葉は……普通ではない。何か、とても大きなものが動いている」
*
娘のほうへ歩み寄った。
その頬に、手を当てた。
「もう寝なさい。明日は明日だ」
そして、娘の目をまっすぐに見た。
「あの二人は大丈夫だ。休めばいい。……それは、お前も同じだ」
そして、抱きしめた。
父親の抱擁だった。急ぐことのない、この瞬間だけが世界のすべてであるかのような抱擁だった。
サリコもそれに応えた。
必要な時間より、ほんの少しだけ長くそこにいて、それから身を離した。
「おやすみ、お父さん」
「おやすみ」
サリコが扉から出ていった。
執務室が、静かになった。
*
勇作は、最初、動かなかった。
ただ、娘が出ていった扉を見ていた。
それから、机の上のカップを見た。
会話のあいだじゅう、ずっとそこにあったカップだった。
まだ、温かかった。
手に取った。
一秒だけ、それを見た。
そして、壁へ叩きつけた。
カップが砕け散った。
その音が一瞬だけ執務室を満たし、それから死んだ。部屋の静けさに、呑み込まれて。
勇作はそこに立ったまま、床に散った破片を見ていた。
その手が、わずかに震えていた。
怒っている男の怒りではなかった。
別の何かだった。もっと深いところにある何かだった。
長いあいだ聞くことを恐れていた言葉を、たった今、聞いてしまった――そういう何かだった。
ソファの上のソラを見た。
床の、ソファの脇で動かないキアロコを見た。
そして何も言わずに、執務室を横切った。
サリコが使ったのとは、違う扉のほうへ。
開けた。
そして、自分の後ろでそれを閉めた。
*
執務室が、暗くなった。
廊下の光が、扉の下からわずかに漏れているだけだった。
ソラはソファの上で、ゆっくりと呼吸を続けていた。
キアロコは床の、その脇にいた。
目を、開けたまま。
眠ってはいなかった。完全に気を失ってもいなかった。
動かないまま、天井を見ていた。
カップの音を、聞いていた。
その前と、その後の、勇作の沈黙を聞いていた。
扉が閉まる音を、聞いていた。
拳を握らなかった。
眉をひそめもしなかった。
何もしなかった。
ただ、天井を見ていた。
目を開けたまま。暗闇の中で。




