23 予期せぬ電話
光がキアロコの部屋の窓から差し込んでいた。
外のベンチで、オコイが一羽、警報のように鳴き喚いていた。
キアロコは追い払おうと歩いていったが、途中で気づいた。実際には、雛たちに飛び方を教えているところだった。
だからキアロコは何もしなかった。ベンチにそのまま居させておいた。
そして浴室に入った。
サンダルを脱ぎ、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱いだ。
それから顔に水をかけ、目やにを落とした。
そしてシャワーの下へ入った。
熱い湯と湯気が、故障中のサウナよりも浴室を温めていた。
一方で外の気温は八十八度あり、ネユルヨンのような別の鳥たちは、近くの水辺から出てこようとしなかった。
浴室を出て、出かける支度を整えた。
階段を下りながら、今日はどのピザにしようかと考えていた。
家の扉を開け、街のほうへ歩き出すと――
同じ通りを、サリコがキアロコの家に向かって歩いてきていた。
サリコは笑顔で、遠くから手を振りはじめた。キアロコはそのほうへ歩いていった。
「こんにちは、キアロコ。今日は元気?」
両手を合わせて、サリコが言った。
キアロコは、こんなところで彼女を見たことに少し戸惑ったが、大して気にも留めなかった。
「ああ、サリコ。……どうも」
奥歯を噛みしめながら言った。
「元気だよ」
嘘のように見える笑みで、サリコが答えた。
キアロコは髪に手をやった。
「俺も元気だ。いい一日を」
サリコは、うつむいたまま言った。
「うん、ありがとう。そっちも、気をつけてね」
誰かがちゃんと見ていたなら、その言い方に何か妙なものを感じ取っただろう。
「そっちもな。じゃあ」
そう言って、キアロコは街のほうへ歩いていった。
*
(今、わたし何を言ったの。ばか。……あの人、家に帰るところだったのに)
(何か考えて。走って。行っちゃう。何でもいいから考えて)
サリコは、遠ざかっていくキアロコを見ながら、そう思っていた。
人々が脇を通り過ぎていく。
(そうだ……ねえ、キアロコ!)
そう思って、けれど誘っていいものか迷った。
そしてもう一度見たときには、彼はもうそこにいなかった。
追いつけるかもしれないと、隣のブロックへ走り出した。
(もう、どういうこと)
走りながら、何と言えばいいのかを考え続けていた。
(どうせビルの上を跳んで行ったんでしょ……走って、走って)
うつむいたまま、そう呟いていた。
そして猛烈な勢いで角を曲がった一メートル先で、背を向けて立っていた誰かにぶつかった。
サリコはすぐに謝った。相手がまだこちらを振り向いてもいないうちに。
そして気づいた。目の前に立っているのは、キアロコだった。
「おい、サリコ。どうした。なんでそんなに走ってる。誰かに何かされてるのか」
その目をまっすぐ見て、キアロコが言った。
サリコは、うろたえながら答えた。
「ううん、違うの……ただ、この後の予定がなくなっちゃって。だから、もしよかったらコーヒーでもどうかなって」
キアロコは思った。
(この子、俺をコーヒーに誘ってるのか。……本当に)
(なら、俺の人生もようやく普通のほうへ動いてるってことだ。きっと他は全部ただの夢で、自分の人生をどうすればいいか分からないときに人が作る、あの手の嘘だったんだ)
(よかった。この子はただの普通の人間だ。まわりを歩いてるこの人たち全員と同じ、ただの)
サリコのほうも思っていた。
(だめだ、この暑さでコーヒー? 他に思いつかなかったの。……そもそもコーヒー飲む人かも分からないのに)
(見て、あの顔。絶対もう帰りたがってる)
「なあ、サリコ」
キアロコが言いかけた。
*
そのとき、黒い車が二台、急停車した。
車から降りてきた黒服の男たちは、全部で八人ほど。彼らはサリコを取り囲んだ。
そのうちの一人が、素早く彼女に無事かどうかを尋ね、車に乗るよう促した。
まわりの人々が通りの反対側へ移動しはじめた。足を止めて見ている者もいた。
サリコは彼らを見た。
「大丈夫よ。こんなことしなくていいから。キアロコに追いつこうとして走ってただけ」
キアロコは何も言わなかった。見なかったことにした。
その横で、彼女は何を言えばいいのか分からずに赤くなっていた。
黒いスーツの男が、もう一度口を開いた。
「かしこまりました。我々は下がります」
男たちは車に乗り込み、去っていった。
サリコがキアロコを見た。
「ごめんね、今の。父がわたしにどういう人か、知ってるでしょう。……兄のことがあってから、なおさらなの。気にしないで」
麻痺でも起こしたように見えたキアロコは、こう思っていた。
(今のは何だったんだ。……通行人まで俺を変な目で見てるぞ)
サリコが、手でキアロコの胸に触れた。
「ねえ、大丈夫? キアロコ。きっと今日の暑さのせいよね?」
キアロコは我に返り、両手を上げた。
「いや、大丈夫だ。何でもない。昨日ソラが宿題をやったかどうか考えてただけだ。心配しないでくれ。……コーヒーの話は、ああ、いいよ。行こう」
そして、電池の切れかけたロボットのように歩き出した。
サリコはその隣を歩いた。
しばらくして、サリコが足を止めた。
「ここよ。ここでコーヒーにしましょう」
キアロコは、そういう場所に慣れていなかった。あまりに豪華で、それは床にまで出ていた。
何も言わずに、サリコと並んで席についた。
ウェイトレスが来て注文を取り、客のあいだへ消えていった。
キアロコとサリコは、囁き声で話していた。さっき通りで起きた私設警備の一件を思い出して、笑いながら。
ウェイトレスがコーヒーを持って戻り、テーブルに置いた。
サリコが彼女を見た。
「ありがとう」
そう言って、コーヒーを一口飲んだ。
*
だが二人とも、頭の中を晴らす必要があった。
淹れたてのコーヒーの香りが、空気に漂っていた。
街では宣伝の看板が飛び交い、監視ドローンが行き交っていたが、こういう場所にはまだ、いくらかの温かさが残っていた。
サリコは両手でカップをもてあそんでいた。
キアロコは窓の外を見ていた。思考のどこかに迷い込んだまま。
「ねえ……これって全部、わたしたちが思ってるより、もっと大きいことなんじゃないかな」
サリコが囁いた。
「もうそうなってる」
視線を外さずに、キアロコが答えた。勝負がまだ続いていることを、知りながら。
「父が言ってたこと、ずっと頭から離れないの」
彼女が言った。
「この宇宙が六天に属していないかもしれないっていう考え……落ち着かない」
「ああ……。だが、いちばん悪いのは答えがないことだ。自分より大きな何かに捕まっていて、そもそも自分がその一部なのかどうかすら分からない」
別のテーブルから、やわらかい笑い声が二つ聞こえた。
キアロコは時間を確かめようと携帯を取り出した。
「たまに、全部もっと単純だったらいいのにって思う」
サリコが呟いた。
「公平な戦い。はっきりした理由……」
ちょうどそのとき、彼の携帯が鳴った。
知らない番号だった。眉をひそめる。そして出た。
「……はい」
反対側から、真剣で、事務的な声が話しかけてきた。
「キアロコさんですか。三津谷と申します。総合病院の医師です。こちらに若いお嬢さんがいらっしゃっていて……ソラさん、と」
キアロコの心臓が、一瞬止まった。
「……何。何があったんですか」
「地下鉄の駅の近くで、意識を失った状態で発見されました。今のところ容体は安定していますが、できるだけ早くお越しいただいたほうがよろしいかと」
カフェの音が消えた。
手の中のカップが震えていた。
「今すぐ行きます」
サリコが、心配そうに彼を見た。
「どうしたの」
「ソラだ。病院にいる」
それ以上は言わずに、走り出した。
サリコはテーブルに金を置き、そのあとを追った。




