22 影のない一日
勇作の執務室の扉が、やわらかい音を立てて閉まった。
外の廊下は、磨かれた木と、どこかの机に忘れられた冷めたコーヒーの匂いがした。
「じゃあね、お父さん」
扉が閉まりきる前に、サリコがもう一度だけ顔を覗かせて言った。
キアロコは何も言わなかった。
ただ短く手を上げた。ほとんど軍隊式のような仕草で。そしてそのまま歩き出した。
二人は並んで廊下を下り、それから街を何ブロックも歩いた。急ぐでもなく。
午後の陽が建物のあいだから斜めに落ちて、歩道に光の帯を描いていた。
サリコは、父が署名する前に三度も見直すと言い張っている書類のことを何か話していた。
キアロコは両手をポケットに入れたまま歩き、半分だけ聞いていた。
完全な沈黙にはなりきらない、いつもの彼の静けさで。
足を止めたのはサリコのほうだった。文の途中で、突然に。
「待って。今、何時?」
キアロコが横目で彼女を見た。
「何に遅れてるんだ」
「ソラよ」
口元に手をやった。
「二十分前に学校が終わってるの」
それ以上は要らなかった。
二人は歩きながら進路を変えた。今度は、もっと速く。
*
ソラは歩道の縁に座って待っていた。
膝のあいだに鞄を挟み、入口の時計を睨んでいた。視線だけで時間を急かせるかのように。
二人が角を曲がってくるのを見て――しかも二人そろって、少し息を切らして――
一瞬だけ動きを止め、驚いた顔をして、それから、許可も取らずに笑みがこぼれた。
「わたしのこと、忘れちゃったのかと思った」
「絶対にない」
キアロコはそれだけ言った。それだけで足りた。
「二人で来たのはね、あなたが二人分の手間をかける価値があるからよ」
サリコが、その髪をくしゃくしゃにしながら付け足した。
「おなか空いてる? わたしはビル一棟ぐらい食べられそう」
*
結局、小さなラーメン屋に落ち着いた。
厨房が見える造りで、鍋から濃い湯気が柱のように立ち上っている、ああいう店だった。
三人でカウンターに座った。ソラが真ん中。
スツールが高くて、足を少しぶらぶらさせていた。
「学校はどうだった」
キアロコが、割った箸を差し出しながら訊いた。
「つまんなかった。歴史のとこ以外は」
汁を吹いてから、ソラが続けた。
「今日ね、古い王朝の話をしたの」
サリコとキアロコが、短く視線を交わした。
大人が、子供は気づかないと思っているあの種類の視線を。
「それで、ソラはどう思った?」
サリコが訊いた。何気なさを装うには、あまりに何気ない声だった。
ソラは肩をすくめた。麺を巻き取ることに集中したまま。
「大人ってさ、話してることよりずっとたくさん知ってるよね」
キアロコは何も言わなかった。
だがその表情が、必要より少しだけ長く、そこに留まっていた。
*
ラーメンのあとは公園へ行った。
陽に焼けて色の褪せたパラソルの屋台で、アイスを買った。
ソラはマンゴー。サリコは三種類入りのやつを選び、「研究のため」と言い張って全部味見した。
そしてキアロコは、いちばん素朴なバニラ。ソラはそれを、個人的な侮辱と受け取った。
「バニラって、アイスの頼み方を知らない人が頼むやつだよ」
自分のを舐めながら、真面目くさった顔で断じた。
「バニラは、自分の好みをもう分かってる人間が頼むんだ」
彼が訂正した。
「……なんか今の、おじさんが言いそう」
「俺は十九だ」
「ほらね」
サリコがあまりに大きな声で笑ったので、隣のベンチから鳩が二羽飛び立った。
木々のあいだを歩いた。アイスがなくなって、手がべたつくようになるまで。
そして何も言わずに指をさしたのはソラだった。
何ブロックも先、屋根の上から顔を出している観覧車を。
*
遊園地は、焦げた砂糖とモーターオイルの匂いがした。
まずはゴーカート型のバンパーカーに乗った。
そこでソラは、黄色い車の全速力でキアロコを追い回すことが、今週いちばん満足のいく活動だと発見した。
「今のはわざとじゃないよ!」
四回目の衝突のあと、まるで信じさせる気のない声でそう叫んだ。
「そうだろうな」
ぶつかった拍子に乱れた髪を直しながら、彼が答えた。
次はジェットコースター。
ソラは両手でしっかり掴まって、一度も悲鳴を上げなかった。
サリコのほうは上げた。三人が恥ずかしくなるほどの熱量で。
そして最後に、空がもう橙に染まりはじめたころ、観覧車に乗った。
同じゴンドラに三人で詰め込まれて、街全体の上をゆっくりと揺られながら。
下で灯りがひとつずつ点きはじめるのを、その高みから見ていたソラが、しばらく黙り込んだ。
地平線を眺めたまま。
「毎日こんな日だったらいいのに」
どちらに向けるでもなく、そう言った。
キアロコは、今度も何も言わなかった。
ただ、その頭に手を置いた。慎重に。何かを壊さないようにする人の手つきで。
そしてゴンドラがまた地面に触れるまで、そこに置いたままにしていた。
*
笑いながら遊園地を出た。
アトラクションの音楽の反響が、一ブロック進むごとに遠ざかっていった。
外に出て、もう灯った街灯の下で、別れの挨拶がはじまった。
「じゃあ」
サリコが腕を伸ばしながら言った。
「いい一日だった。わたしはもう行かなきゃ」
「うん、すごく楽しかった」
笑いすぎて頬がまだ赤いまま、ソラが言った。
「うちにも遊びに来るの、忘れないでね」
「もちろん」
サリコが、その乱れた髪を撫でながら答えた。
それからキアロコを見た。
彼は一歩下がったところに立って、通りのどこか一点に視線を漂わせていた。
口にしなかった何かを考えながら。
自分がまだ生きていることを確かめる必要があるかのように考え込む、あの何度も繰り返されてきた仕草で。
「またね、キアロコ」
彼が戻ってくるまで、一秒かかった。
「ああ、うん。……気をつけて」
ぎこちなく言った。問題が間にないと、人にどう話しかければいいのか分からないかのように。
サリコは微笑み、笑いを隠すように口元に手をやって、振り返らずに手を振りながら、通りを歩いていった。
*
ソラとキアロコだけが残された。家までの道を前にして。
しばらく黙って歩いた。
キアロコは、どうしても考えずにいられなかった。これがどれほど奇妙なことか。
丸一日外にいただけで、自分の人生がしばらくのあいだ、また普通に感じられたこと。
くぐり抜けてきたことも、あの執務室で勇作に言われたことも、全部が後ろに置き去りになって、溶けていた。
ラーメンと観覧車の午後ひとつで、世界が肩の上から重さを下ろしてしまうかのように。
(まあいい)と彼は思った。
(あとはまたピザを食いに行くだけだ。人生は前と同じように続く)
何も言わずに彼女を持ち上げ、肩の上に乗せた。
ソラは上から、片眉を上げて彼を見た。その仕草の意味がよく分からないまま。
それでも文句は言わなかった。むしろ、足の下を通りの全部が流れていくのを見て、笑った。
そのまま何ブロックも歩いた。夜が道の上に落ちきるまで。
家に着くと、靴を玄関の隅に脱ぎ捨てて、ソラはまっすぐテレビをつけに行った。
「だめだ、ソラ」
声を荒らげずに、キアロコが言った。
「宿題をやれ」
「やだ。もう遅いもん」
「宿題を終わらせろ。それから寝るんだ」
彼女は観念してうつむき、机から鞄を取って、それ以上何も言わずに宿題をやりはじめた。
*
キアロコは家の屋根に上がった。
そこに座ったまま、空を見上げていた。
何かが――声が、徴が、何でもいいから――返してくるのを待つように。
何も起きなかった。
空は、いつもとまったく同じだけ、黙ったままだった。
しばらくして下りてくると、ソラが床にいた。鞄はもうなく、こちらを見ていた。
「なあ、ソラ。どうした」
彼女が笑った。
「待ってたの」
そう言って、彼の手を取った。
「お風呂に行くために」
「本気か。もう一人で入れるだろ」
「やだ。だから行こう」
彼を風呂場まで引きずっていった。
キアロコはいつものことをした。シャワーを出し、シャンプーを取ってやり――
その横で、彼女は自分で作った歌を、調子外れに歌っていた。
そしてどこかの時点で、自分が濡れないように髪をすすがせようとしたとき、石鹸が手から逃げた。
「またっ、目に石鹸が入った!」
彼が叫び、シャワーの中からソラが、水音に混ざるほどの大声で笑った。
『我が第二の精霊』の物語に参加してくださる皆さん、本当にありがとうございます。この物語には多くの秘密が隠されていますが、そのすべてを共に解き明かしていくことでしょう。「六天の契約」の一部となってくれて、心から感謝します。




