20 過去からの声
キアロコはビルを出ようと歩き出した。
落ち着いた足取りでエレベーターまで行った。外に出て、新しい空気を吸いたかった。
途中ですれ違う人たちには、ほとんど全員に挨拶をした。礼儀正しく。
そして歩きはじめた。いくつもの事務所の前を通り、店の前を通り、駅の停留所の前を通った。
そのどこでも、足を止めなかった。
あの会話の重さを、そのまま背負ったままだった。
あれだけのことを聞かされてなお、その情報は、彼が生きていたいと思っていた世界には収まらなかった。
自動販売機の前で足を止め、黄色いオモリを買った。
そしてまた、家への道を歩きはじめた。
*
キアロコが家に着いた。
ソラはテレビを見ていた。
彼の姿を見るなり、大きな笑顔で駆け寄ってきて、嬉しそうにこう訊いた。
「お仕事、どうだった?」
美しく、やわらかい声だった。
その声を聞いて、キアロコはオモリを飲みかけたまま、危うく喉を詰まらせた。
彼にとって、それは驚き以上のものだった。予想もしていなかった。
いつもの少女がいると思っていた。走り回って、時々何かを囁くだけの、あの子が。
何と言えばいいのか、見つからなかった。感情が、目を眩ませていた。
それでも、自分がどこにいたのかは秘密にしなければならないことを思い出し、ただ、仕事に行っていた人間のように答えた。
「……全部、うまくいったよ」
そう言って、その髪をくしゃりと撫でた。微かに笑いながら。
ソラは嬉しそうにして、彼が「留守にしていた」あいだに学校で習ったことを、ひとつ残らず話しはじめた。
*
キアロコは部屋の中を行ったり来たりしていた。視線は床に落ちたままだった。
本当のことを言わなければならないと分かっていた。
いつか、去らなければならないと分かっていた。
だが言葉が……喉につかえて出てこなかった。
ソファに座ったソラが、不思議そうに彼を見ていた。
「どうしたの、キアロコ。なんでそんなに落ち着かないの」
彼は足を止めた。拳を握った。深く息を吸った。
「ソラ……」
望んでいたより、声が張りつめていた。
「いつか……俺は……行かなきゃならない」
ソラは瞬きをして、首を傾げた。
「どこに?」
キアロコは眉をひそめた。
その答えは、彼自身にも分からなかった。
「はっきりとは分からない。だが、ずっとここにはいられないんだ」
ソラの顔が、一瞬だけ翳った。
……だがそれから、やわらかく微笑んだ。
「あのね……わたし、心のどこかで、いつかこの日が来るって、ずっと知ってたよ」
キアロコは驚いて彼女を見た。
「……知ってたのか」
ソラが頷いた。
あたたかい沈黙が、二人を包んだ。
そして同時に、見えない亀裂が、二人のあいだに開いていった。
キアロコは胸に圧迫を感じた。
発たなければならない日が近づいていることは、分かっていた。
だが今はまだ……この子を置いていく準備ができていなかった。
「これって全部……キアロコが人間じゃないから、だよね」
ソラが、うつむいてそう言った。
キアロコは驚いて彼女を見た。
「……なんで、俺が人間じゃないって知ってる」
その目を、まっすぐ彼女に据えた。
ソラは息をついた。腕を組んだ。その表情が変わった。
「あの廃ビルで起きたこと、覚えてるもん。……キアロコがわたしを助けてくれたとき」
話す速さはゆっくりだったが、会話を続けるには充分だった。
キアロコの背筋を、冷たいものが走った。
「……正確には、何を覚えてる」
ソラは、懐かしさと真剣さの混ざった目で彼を見た。
「影。キアロコのまわりで動いてた。まるでキアロコの一部みたいに。人間にできるはずのないことを見たの」
そして続けた。
「あのときは、何が起きてるのか分からなかった。……でも今は、分かる」
キアロコは黙り込んだ。
思考が渦を巻いていた。
深く息を吸い、喉に結び目を抱えたまま、こう訊いた。
「……なあ、ソラ。それで、何か変わるか」
ソラは、彼の目をまっすぐ見た。
「ううん」
そして言った。
「だってキアロコは、キアロコだもん。わたしのお兄ちゃんだもん。……わたしの全部だもん」
説明の要らない沈黙があった。
彼女はもう知っていた。彼ももう知っていた。
そして未来がどれほど不確かでも……二人が感じているものは、壊せるものではなかった。
ソラはもう数秒だけ彼を見つめ、それから微かに笑って頷いた。
「うん、知ってる。行ってほしくないけど……それでも、わたしたちのあいだは何も変わらないよ」
ソラの言葉に驚きながら――話すのは遅くても、その意味は充分に、はっきりと伝わってきた――キアロコは息をつき、その目を見つめた。
「……じゃあ、あれを全部覚えてるのか」
ソラは笑いながら、キアロコの肩に寄りかかるようにして、そこへ落ち着いた。
「もちろん覚えてるよ。ただ、どう言えばいいのか分からなかっただけ。それに、けっこう長いこと練習してるんだから。学校には言葉の教室もあるしね」
話す彼女を聞きながら、キアロコの驚きは増していくばかりだった。
少なくとも、この子と話せるようになったことは分かった。そして、いちばん重いことは、もう知られているということも。
そう思うと、いくらか気が楽になった。
「それが分かって、本当によかった」
キアロコが言った。
「まあ、ほかの話をしよう。その話は、今日はもう忘れよう」
*
二人は何時間も話し続け、夜はすっかり更けていった。
ラーメンを買いに出て、家に戻って食べはじめた。
全部片づけたあと――話して、ソラの言葉をいくつか当てっこして過ごした、美しい一日のあとで。
キアロコはテレビを消し、ソラを見た。
「よし、じゃあもう寝るぞ。明日はまた別の日だ」
階段のほうへ歩き出したとき、ソラが彼の服を掴んだ。今にも泣き出しそうな顔で。
「どうした、ソラ」
キアロコが訊いた。
ソラはうつむいたまま、彼の服を握っていた。
「だって……お風呂、入らなきゃ」
キアロコは思い出した。この子の風呂はいつも自分が入れていたこと。そして、それが毎回とんでもない惨事になることを。
あの風呂の一日を思い出すと、身体が重くなった。
それでも彼女の手を取り、二人は風呂場へ向かった。
扉の向こうから、キアロコの叫び声が聞こえてきた。
「目に石鹸が入った! そんなに動くな!」
「サリコはわたしのお世話してくれたとき、目に石鹸が入るなんて気にしなかったよ」
シャワーの水をすすりながら、ソラが笑って言った。
「俺はサリコじゃないんだよ、ばかぁぁっ!」
キアロコが叫んだ。
*
未来のことは考えたくなかった。
今夜だけは。
「もう寝よう」
落ち着いた声でそう言った。
「明日は、また別の日だ」
ソラはもう一瞬だけ彼を見て、何も言わなかった。
それから背を向け、自分の部屋へ歩いていった。
キアロコは、その後ろ姿が遠ざかっていくのを見ていた。
いつか、この子に別れを告げなければならない――それを知っている孤独を、感じながら。
まだ一緒にいるというのに……見えない距離が、二人のあいだで育ちはじめていた。




