16 父と娘
アパートの扉の前まで来ると、キアロコは勇作とサリコに別れの挨拶をした。
何が来ようと、正面から受け止める。そう決めていた。
それでも一瞬だけ、夜の静けさが、わずかな希望を彼にくれるのに任せた。
だが心の奥底では、分かっていた。
これは嵐の前の、束の間の息継ぎでしかないのだと。
*
これから何が起きるのかを、すでに知っていたサリコが、父に言った。
「キアロコに、言うべきことは言ったの? これから来るものと……あの戦争のこと」
その問いを聞いて、勇作は考え込んだ。
娘までもがそれを知っていることに、驚いていた。
「ああ。言えることは言った」
真剣な声だった。
「だが、すべてを話すべき時ではない。キアロコは、来るものに備えていなければならん。あれはまだ、自分自身について学ぶべきことが多すぎる」
そして続けた。
「一度に全部を話せば……制御を失いかねない。それは避けたい。段階を踏まねばならんのだ」
サリコは、心配そうに父を見た。
父の言うことが正しいのは分かっていた。
だが同時に、時間が尽きかけていることも理解していた。
「これ以上は待てないよ、お父さん」
そして、こう続けた。
「『天界戦争』が近づいているなら、キアロコが自分の中にあるものを知らないままでいるわけにはいかない。彼には備えが要る。それも、早く」
勇作は頷いた。だがその顔を、迷いの影がよぎった。
「分かっている」
一拍あった。
「だが、我々にもまだ完全には理解できていないことが多すぎる。過去には、暗い秘密がある……神々と王朝のあいだで交わされた、あの契約の中に」
さらに、低く言った。
「真珠の断片は、力への鍵であるだけではない。もっと大きな……そして危険な運命への鍵でもあるのだ」
「じゃあ、今の私たちに何ができるの」
サリコが食い下がった。
「今は、あらゆることに備えるしかない」
勇作は地平線のほうを見ながら言った。
「これから来るものは、すべてを変える。だがパズルの断片が揃わないまま、それに立ち向かうことはできん」
そして続けた。
「キアロコは、自分が本当は何者で、内にどんな力を宿しているのかを知る必要がある。そして我々は、神々が……ふたたび解き放たれるのを防ぐ方法を見つけなければならない」
サリコは頷いた。もう、これ以上時間を失うわけにはいかない。
勇作は溜息をつき、厳しい表情を浮かべた。
「お前の言うとおりだ、サリコ」
そして言った。
「キアロコは謎だ。そしてあの影の力は……他とは違う。ほかの元素の規則に、当てはまらない」
一拍。
「ほかの者たちが受け継いだのは、はっきりとした力だ。だが影は……影は、別の何かだ。予測がつかない」
「じゃあ、どうして彼にその力があるの?」
サリコが腕を組み、考え込みながら訊いた。
「これ全部の中で、彼はどこに嵌まるの。真珠が神々の断片だとして、彼がそんなに……昏いものを持っているなら。……もしかして、すべての鍵なんじゃない?」
「かもしれん」
勇作が、確信のない声で答えた。
「あるいは、脅威なのかもしれん。影というのは、容易に御せるものではない。もしキアロコの力が溢れ出せば……我々の持つものすべてを、壊しかねない」
「彼が本当に保持者なのかは分かってるの? 断片? それとも、真珠そのもの?」
「誰にも分からん」
そして、こう続けた。
「誰があれを創ったのかも……どうやってその力を持つに至ったのかも、我々は知らない。家族のことも分からん。そもそも、どこかの王朝の血を引いているのかどうかすら」
サリコが、声を落とした。真剣な声だった。
「もし……他の連中が、彼を脅威だと見なしたら」
勇作は、一瞬だけ目を閉じた。
「それが、私の懸念だ」
そして続けた。
「王朝どもが、あれが何であるかを知れば……手に入れようとするだろう。さもなくば、消そうとする。影の力は、彼らに御せるものではない。そしてそれが……彼らを恐怖させる」
「じゃあ、本当のことを話すの?」
サリコが訊いた。
「まだだ」
勇作の声は揺るがなかった。
「キアロコは、自分で見つけ出さねばならん。自分の速さで。一度に全部を渡してしまえば、制御を失うだけでは済まん。……内側から壊れてしまうこともある」
そして、こう言った。
「今いちばん大事なのは、あれが自分自身と、自分の力を信じられるようになることだ」
サリコは、ゆっくりと頷いた。
重圧は計り知れなかった。
世界の運命が、自分が何者かすら知らない人間の肩に、落ちようとしている。
「それで、私たちは今から何をするの」
「できることをする」
勇作が、決然とした目で言った。
「あれが準備できるまで、守る。そしてもし『天界戦争』が近づいているなら……共に立ち向かう」
一拍あった。
「だがその前に、キアロコが備えていることを確かめねばならん。あの影の力は、我々の唯一の希望になるか……あるいは、我々の破滅になる」
言葉を切り、それからこう付け加えた。
「明日、あれを会社へ呼べ。試練を与える」
サリコが、驚いて父を見た。
「試練? いったい何のために」
「これ以上待つことはできん」
そして続けた。
「キアロコが自分の力を制御できているのか……それとも、失う寸前なのか。私はそれを知らねばならない」
「危険だよ、お父さん……」
サリコが呟いた。
「でも、どうしてそうするのかは分かる。もしかしたら……それが、彼が完全に目覚めるために必要なことなのかもしれない」
勇作は、娘をまっすぐ見た。
「そのとおりだ」
そして言った。
「人の真の力を知る道は、時に一つしかない。……試すことだ」
「どんな試練なの」
「制御の試練だ」
勇作が答えた。
「あの影の力で、どこまで行けるのかを見る。精神の試練であり、肉体の試練でもある。御しきれなければ、まだその時ではないと分かる。そしてそれは、我々が何を相手にしているのかを、正確に教えてくれる」
サリコは溜息をついた。だが、もう引き返せなかった。
「……うまくいくといいけど、お父さん」
「うまくいく」
勇作が言った。
だがその目は……口にした言葉ほどの確信を、映してはいなかった。
「うまくいくさ」
そして、静かに続けた。
「……そうでなければ、ならないのだから」




