13 風のための家
二人はピザ屋に座っていた。キアロコの向かいにソラがいた。
ソラを見ながら、キアロコはサリコの言葉が頭から離れなかった。
じっと観察していた。ピザの持ち方。好奇心に満ちた目。あれだけのことをくぐり抜けてなお、損なわれていない無邪気さ。
リュウがオモリを二つ持ってきて、二人の前に置き、そのまま放っておいてくれた。
「服を買ってやったみたいだな。だが、そんだけ汚れてちゃ、着せられねえだろ」
「ああ、そのとおりだ」
キアロコが答えた。
「で、これからどうするつもりだ」
リュウが訊いた。店には次々と客が入ってきていた。
「なあ、リュウ……この子の養子縁組が、下りることになった」
そう言って、キアロコはオモリを一口飲んだ。
「本当か? よっぽど運がいいんだな……いや、コネか。養子ってのは面倒なもんだ。ましてやお前の歳で、素性のろくに分からん子をとなればな」
「厄介なのは分かってる」
キアロコが言った。
その隣で、ソラもオモリを一口飲んでいた。
「俺がお前なら、こんなところで座っちゃいねえ」
リュウが続けた。
「守るって自分で言ったんだろう。だったら動け。それにな、その子はもうそこそこ育ってる。世の中ってもんを覚えたら、最後は逆にお前が世話されることになるぞ」
そう言って、笑いながら自分の持ち場へ戻っていった。
キアロコは、それを聞いて居心地の悪い顔をした。
(どういう意味だ、今のは)
その横で、ソラはまだピザを食べていた。
やがて、彼は立ち上がった。
そのときが来たのだ。
二人はサリコのビルへ向かって歩き出した。
*
かつてマフィアの巣として知られていたサリコのビルは、今は別の光をまとっていた。
入る前に、キアロコは一瞬それを見上げた。
自分の人生がこれから変わろうとしているのを、知っていた。
あたりを見回し、二人は中へ入っていった。
受付の女性が、笑顔で迎えた。
「どのようなご用件でしょうか」
「サリコに会いに来た」
キアロコが答えた。
彼女は短く電話をかけ、それから頷いた。
「最上階へどうぞ。上でお待ちです」
上へ着くと、サリコが両手を広げて迎えた。
「キアロコ! ソラ! 会えて嬉しい。さあ、座って」
ソラはその場所に見とれて、まるで公園のように走り回りはじめた。
キアロコはサリコの正面に座った。机の上にはもう書類が用意されていた。
(なぜ俺の名前を知っている。教えた覚えはないのに)
そう思いながら。
「聞かせて、キアロコ。本当にこれでいいの? 嫌なら、こちらであの子を引き受けることもできる。預けられる場所があるから」
キアロコは、走り回って遊んでいるソラを見た。
ソラは立ち止まり、彼の目をまっすぐ見返した。
笑いもしない。何も言わない。
ただ二人は見つめ合っていた。サリコが、その様子を眺めていた。
「……ええ、もういい。その目が全部言ってる」
サリコが言った。
「ここに署名して。それでソラはあなたのものよ」
書類とペンを差し出した。
キアロコはそれを受け取り、数秒だけ紙を見つめ、それから署名しはじめた。
サリコは微笑んでいた。
「はい、これで完了。この一枚は持っていって。残りは何日かしたら取りに来て」
「ありがとう。……正直、どう礼を言えばいいのか分からない」
「いいのよ、そんなの。あなたにできる最低限のことだもの。それに、もっといろいろしてあげられる。言ってくれさえすれば、何でもするから」
机に身を預けるようにして、じっと彼を見つめた。
キアロコは少し驚いて、わずかに身を引いた。
「……いや、これで充分だ。本当にありがとう」
「もう、そんなに固くならないで」
そう言いながら、サリコはパソコンで何か作業を終わらせていた。
「ああ、ありがとう。これ以上時間を取らせるのも悪い。俺はもう行く」
サリコがもう一度彼を見て、言った。
「いつまでもホテル暮らしってわけにはいかないでしょう。あの子に普通の生活をさせるなら、決まった場所がいる。二人が帰れる家。あの子が学校へ通える場所。……でも心配しないで、それも私が引き受けられるから」
自分の名前を知られていたことに続いて、ホテルで寝ていることまで知られている。
キアロコは何も言わなかった。
誤解を招かないよう、その疑問は胸にしまっておいた。
そして、驚いた目で彼女を見た。
これほど与えられたことなど、一度もなかった。
その声は低く、ほとんど囁きだった。
「……どうにか考えてみる。それは気にしなくていい。あの子が帰れる場所は、俺がなんとかする」
サリコが微笑んだ。
「あなたは私の命を救ってくれた、キアロコ。それは屋根一つよりずっと高くつくの。せめてその一部だけでも返させて」
キアロコには、自分にしてもらっていることの全部を理解する言葉がなかった。
サリコは椅子から立ち上がり、彼のすぐ横に立って、耳元でこう言った。
「私に助けられるの、そんなに嫌? それに、他に何か必要なら、遠慮なく言ってちょうだいね」
あまりに近くて、キアロコはどこに身を置けばいいのか分からなかった。
*
そのとき、ソラが、部屋に入ってきた男にぶつかった。
上品な身なりだった。白いベスト。逆立った、威圧感のある髪。
あの夜の病院にいた人物とは、まるで別人だった。
「ごめんなさい……」
言葉を持たない少女が、そう言ったように見えた。
倒れたあと、ぬいぐるみを抱きしめ、うつむいたまま。
男は彼女を助け起こし、それからキアロコを見て微笑んだ。
「君が、噂のキアロコか。もう一度会えて嬉しいよ」
そして続けた。
「勇作といいます。君の話は聞いていてね……その子のことも。養子にしたそうだね。よかった。きっと、うまくやっていけるよ」
見せているより多くのことを隠しているような口ぶりだった。
キアロコは頷いた。まだ少し戸惑っていた。
目の前の男は、はるかに生気があり、隙がなかった。
あのビルで助けた老人とは、似ても似つかなかった。
「……ありがとう、勇作さん」
そう言った。その言葉に、まだ戸惑いながら。
前に会っていることを、知りながら。
互いに何かを隠している。そんな気がした。
サリコは、桃色のオモリを一口飲んでから父のそばへ寄り、抱きついて、別れの挨拶をした。
「またね、お父さん」
親しげな声だった。
「気をつけてな」
勇作はそう答え、扉の向こうへ消えていった。
*
サリコはキアロコとソラを連れて、いくつもの物件を見せて回った。
とても豪華な一軒家。高層の部屋。
見せられるたび、どれも過ぎたものに思えた。
そうしてたどり着いたのが、ピザ屋からそう遠くない、小さなアパートだった。
豪華ではなかった。だが、あたたかかった。落ち着ける場所だった。
キアロコはじっとそれを見て、頷いた。
「ここでいい」
サリコが、怪訝そうに彼を見た。
「本当に? もっといいところを用意できるけど……」
「これ以上は要らない」
確信のこもった声だった。
「ピザ屋に近い。それが大事なんだ」
サリコは微笑んで、携帯を取り出した。
「じゃあ、手続きを進めるわね。ここはあなたのものになる。あなたがしてくれたこと全部への、お礼だと思って」
キアロコは、しばらく黙っていた。
「……つまり、この部屋は俺の名義になるのか」
「ええ」
サリコが頷いた。
だがそのとき、キアロコは目を落とし、何か考え込んだ。
そして、わずかに微笑んで言った。
「……なあ。この部屋、ソラの名義にしてくれ」
サリコが驚いて彼を見た。
「本気で言ってる?」
「あの子には、自分のものが必要だ。誰にも、絶対に取り上げられないものが」
サリコは、やさしく微笑んだ。
「あなたって、本当にすごい人ね。分かった。全部ソラの名義にする」
何が起きているのか、ソラにはほとんど分かっていなかった。
キアロコを見て、それからサリコを見た。
言葉にすることはできない。
それでも、その内側の何かが告げていた。
生まれて初めて――帰る場所が、できたのだと。




