12 不確かな未来
数日後。
キアロコはピザ屋の扉をくぐった。救うのを手伝ったあの少女に会えないかと思いながら。
店の奥、隅にいる姿を見つけて、心臓が速くなった。何かを待っているかのように、そこに座っていた。
だが――着ているのは、あの擦り切れた汚れた服のままだった。
前に会った日から、何ひとつ変わっていないかのように。
キアロコは近づいた。胸の奥がざわついた。
あれだけのことがあったのに、この子はまだ同じ場所で、同じように生きている。
「なんでこんなところにいる」
信じられない、という声だった。
少女は彼を見上げ、肩をすくめた。答えらしい答えは返ってこない。
「…………」
行くところがない。
ぬいぐるみを抱きしめたまま、その目が、そう言っていた。
疲れと、諦めの混じった目だった。
キアロコの胃が締めつけられた。
実業家が動いて、病院での一件もあって、この子はもっとましな暮らしをしているものだと思っていた。
それがこの姿だ。……悲しみが、身体の中に流れ込んできた。
「あんたが何をくぐり抜けてきたか、俺は見てきた」
一度目を落とし、それからまた少女を見た。
「もう、こんな生き方をしなくていい。俺は……本当に、あんたを助けられる。安全な場所へ行かないか。あの人が居場所を用意してくれる。面倒を見てくれる人間もいる。もっとましな人生を送れるんだ」
キアロコとは気の合う仲だったピザ屋の店主が、離れたところからその会話を聞いていた。
そして近づいてくると、静かな、それでいて揺るがない声で、正直な助言をくれた。
「なあ、キアロコ……お前にだって、親父もお袋もいねえだろう」
そして続けた。
「お前とあの子は、自分で思ってるよりずっと似てるんだ。二人とも、どこかで迷子になってる。二人とも、飯や金じゃ埋まらねえ穴を抱えてる。あの子に要るのは、それとは別のもんだ。そして――信じられねえかもしれんが、お前がその適任なんだよ」
一拍おいて、こう言った。
「全部片づいてる人間じゃなくていい。だいたい、そんなもん、お前もあの子も持っちゃいねえんだからな。互いに道を見つける手伝いはできるはずだ。家のない暮らしってやつを、二人とも分かってるんだから」
その言葉を聞いて、キアロコはこれまでになく揺れた。
店主の言うとおりだと、分かっていた。
だが、この子の責任を負うという考えが、彼を怯えさせた。
そのとき、少女が彼を見た。希望に満ちた目で。
彼が決断するのを待っているかのように。すべてが彼にかかっているかのように。
リュウが、キアロコと少女を交互に、ちらりと見た。
「いつかあの子が、お前の命を救うかもしれんぞ、キアロコ。どれだけ苦しくたって、この先に何が待ってるかなんざ、誰にも分からんのだからな」
キアロコは深く息を吸った。
少女を見て、それから店主を見た。
そして、頭の中にあった言葉を、ようやく世界へ出した。
「……分かった。俺が面倒を見る」
リュウはキアロコの肩に手を置き、その目をまっすぐ見た。
誰かの面倒を見るということが、それも相手が女の子であるなら、生易しいことではないと知っていた。
だがこの男は父親だった。キアロコに、我が子へ話すように話せる、ただ一人の人間だった。
長い付き合いだった。そしてキアロコがいちばんよく口をきく相手が自分であることも、リュウは分かっていた。だから、こいつは聞いてくれるはずだと。
「よく聞け、キアロコ」
そして続けた。
「お前が今からやろうとしてることなんざ、一度もやったことがねえのは分かってる。ましてや、この子の面倒を見るなんてのはな。責任ってもんも、自分の身の守り方も、お前は知ってる。それは分かってるんだ」
一拍あった。
「だが、これからはこの子がいる。お前の人生は、気づく暇もねえほど速く変わっちまうだろう。そして気づいたときには――思ってたよりずっといい場所に立ってるはずだ」
さらに、こう言った。
「自分の娘みたいに、大事にしてやれ。これからうまくやってくれよ」
キアロコは、リュウを見た。
その言葉が、父親の口から出たものだと分かっていた。自分が一度も持ったことのない、あの父親の口から。
返す言葉は見つからなかった。
それでも、リュウが本当のことを言っているのは分かっていた。この一歩を踏み出せば、これまでの人生はもう同じではなくなるということも。
キアロコは少女を見た。
「……できるかぎりのことをする。ありがとう」
リュウが笑った。
「ついでに、俺の客に迷惑かけねえよう躾けてくれるとありがたいがな」
キアロコは、少し迷惑そうな顔で彼を見た。
だが、それが意味する責任の重さも分かっていた。
「まず、この子はしゃべれるようにならなきゃいけない。……その始め方すら、俺には分からない」
「まあ、せいぜい楽しめや」
そう言って、リュウはカウンターの奥、自分の持ち場へ歩いていった。
キアロコはその背中を見送った。
そして少女の手を取り、二人は出口へ向かって歩き出した。
*
キアロコは通りを歩いていた。少女を隣に連れて。
その服は、まだ汚れて擦り切れたままだった。
洋服店の前を通りかかったとき、彼はショーウィンドウの前で足を止めた。
横目で少女を見る。
「あれ、好きか」
返事はなかった。
だがその視線は、風にそよぐように飾られた水色のワンピースに、固定されたままだった。
キアロコは店に入った。
値札を確かめる。生地に触れる。
そこでようやく気づいた。外から見ればただの素朴な店なのに、中の服はどれも高級で、光を放っていた。洗練された身なりの客が、すぐ横を歩いていく。
(へえ……この店、外の見た目で誰でも騙せるな)
そう思った。
服を見た。生地を見た。あちこちを見て回った。
少女は、暗い色の一着をじっと見つめていた。動かずに。
「あそこのやつ……あれが好きなのか」
キアロコが訊いた。
「…………」
言葉を持たない少女は、瞬きもせずにその服を見つめているだけだった。
キアロコには、それだけで充分だった。この一着だと分かった。
値段を見て、驚いた。
もっと安い店へ移ったほうがいいだろうか、と考えた。
「困ってる?」
背後から、声がした。
彼が助けたあの娘だった。同じ店にいた。
上品で、しっかりと立っていて、いつもどおりだった。
キアロコは驚いた。
「いや……何か買ってやりたかっただけだ」
娘はやわらかく微笑んだ。
「私が持ちます」
そう言って服を手に取り、二人はレジへ歩き出した。
キアロコは少し戸惑い、気恥ずかしくなって言った。
「おい、こんなことしなくていいんだぞ」
娘はそのまま歩き続け、先にレジへ着いた。
そして振り返り、微笑んだ。
「あなたには借りが多すぎるんです。だから気にしないで。これくらい、私にできる最低限のことですから」
目を細めて笑いながら、彼を見ていた。
そして迷いもせず支払った。
それから彼のほうを向き、小さな両手で買い物袋を抱えた少女に目をやった。
「あの子、養子にしたらどうですか」
不意に、そう言った。
「養子?」
キアロコが繰り返した。驚いたまま、出口のほうへ歩いていく。
「あの子はあなたについてくる。あなたを信じてる。もう、ただの迷子の子供じゃないんです」
娘は続けた。
「本気で守りたいなら、この世界にあの子の居場所を作ってあげるべきです。名前と、帰る場所を」
キアロコは少女を見た。
少女もまた、彼を見ていた。一語一語を理解しているかのように。
「……俺に、できるのか」
「あなたがそう望むなら」
娘の声は揺るがなかった。
「手続きは私が引き受けます。でも養子にするなら、もう『あの子』ではいられません。名前をあげてください。意味のある名前を」
キアロコは黙った。
しばらく目を閉じ、二人のあいだを風が抜けていくのに任せた。
そして頭の中に、ひとつの言葉が浮かんだ。運命の囁きのように。
「……ソラ」
ついに、そう言った。
「ソラ?」
娘が、美しい笑みで訊き返した。
「ああ……空みたいな。自由に飛ぶ風みたいな」
そう答えて、少女に小さく微笑みかけた。
「今日から……お前はソラだ」
少女は目を見開いて彼を見た。生まれて初めて、その目が光っていた。
自分の内側で、何か新しいものが生まれたかのように。
娘は、黒く美しい髪をそよ風になびかせながら頷いた。
「じゃあ、これで正式ね。ようこそ、ソラ」
(ソラ……ソラ)
少女は心の中で繰り返していた。それが本当に自分の名前なのか、確かめようとするように。
まわりの人間が自分の顔を見ているあいだも。
ぬいぐるみも、買い物袋も、手放さないまま。
*
服を買ってもらったあと、キアロコは圧倒されていた。
こういう類いの好意に、慣れていなかった。
影と木のあいだで生きてきた人間にとって、誰かが手を差し伸べてくるというだけで……多すぎた。
何と言えばいいのか分からず、ただ頷いた。
「……ありがとう」
やっと呟けたのは、それだけだった。
娘は穏やかに微笑んで答えた。
「気にしないで。都合のいいときに事務所へ寄ってください。あの上は、いつでも歓迎ですから。書類もお渡ししますし、いろんな話もしましょう……あなたに話したいこと、どれだけあるか分からないくらい」
キアロコは少し緊張して、顔が赤くなった。
(話す? どういう意味だ。女の子が、俺と話したいって……)
そんな妙なことを考えているあいだに、ソラが少し咳き込んだ。
そよ風が、その髪を動かしはじめていた。
「ああ、かわいい」
娘が言った。
「その声を聞いたら、この子きっと十四歳くらいね。間違いないわ」
そしてソラの髪に手を通した。
その言葉に驚いて、キアロコは思った。
(本気で十四って言ったのか。嘘だろ……俺は何に首を突っ込んでるんだ)
「じゃあ、私はこれで」
娘が、買い物袋でいっぱいの両手を持ち上げて言った。
「よく考えてくださいね……事務所に寄るの、忘れないで」
キアロコは、彼女が離れていくのを見ていた。
髪がそよ風に揺れ、その服は美しく、目を奪うものだった。
「ああ、ありがとう。気をつけて」
そう言いながら、目を離せずにいた。
数歩進んだところで、彼女は振り返り、もう一度キアロコとソラを見た。
「あ、それと……私、サリコっていいます。よろしくね」
そして幸せそうに駆け出し、遠ざかっていった。
キアロコは、その場に立ち尽くしていた。
その名前が、魂に刻みつけられたように思えた。
多くを語る名前だった。
だが彼は、それを無視しようとした。その思いに、期待などしないように。




