七。
〝紀平せんぱい〟から誘われる、という思わぬ展開に、すっかり気分が高揚してしまった一葉だったが、その日は部室に顔を出しただけで、すぐに家に飛んで帰った。
帰宅するや、自室に上がってカメラの電源を入れる。
LVにした液晶画面に、あの女の子が居た。
女の子は、一葉のベッドの上に、居ずまいを正して座っていた。
真っ直ぐにこちらの方を見ている。
「こんにちは」
一葉がそう言うと、画面の中の彼女の口許が小さく動いた。〝こんにちは〟と言っているのだろう。
それから彼女が、昨夜のように何かを伝えようとベッドから腰を上げようとする。一葉はそれを手で制した。
「あ、ちょい待って」
一葉には秘策があった。
今日の学校…──苦手の理科の授業の中、ずっと考えて思いついたものだった。
一葉は机の上でノートを開くと、見開きいっぱいに〝あ・い・う・え・お…──〟と五十音を書いた。それからその上に、〝はい〟と〝いいえ〟と書いてそれぞれを丸で囲み、下の方には1~10(0)の数字を並べる。
そうしてから、一葉は笑顔になって女の子を手招きし、机の上のその見開きを見せた。
彼女がそちらを見ているだろうと思いながら、五十音の上で指を滑らせる──。
〝わ・た・し・し・ん・さ……〟
一葉は、ここであることに気付いて動きを止めた。
慌てて五十音の脇に〝゛〟(濁音)と〝゜〟(半濁音)を付け加えてやり直す。
〝わ・た・し・し・ん・さ・゛・わ・か・す・゛・は……あ・な・た・は〟
やらせたいことはすぐに伝わった。
彼女の白くて細い指が、五十音の上を躍った。
〝き・ひ・ら・ち・か〟
「き・ひ・ら・ち・か…──きひらちかさん?」 女の子の指を追って声の出ていた一葉は、その響きにふと気付く。「きひら……って、紀平⁉」
びっくりしたふうに声を上げた一葉は、慌てて女の子の顔にレンズを向けた。
そこに、慌てた一葉の豹変ぶりにびっくりした風情の〝きひらちか〟が、目を丸くして見返している。
なんだか気まずくなった一葉は、ぎこちなく笑い返した。
「えっと……きひらさんは、紀平せんぱいの、妹さん?」
バツが悪いのを忍んで、声に出して確認してみる。
女の子──きひらさんは、悪戯っぽい笑みになって頷いた。
──…ああ、そうなんだ。このコは紀平せんぱいの妹さんなんだ。
すると、幽霊の〝きひらちか〟の兄である紀平正道は、妹さんを亡くしている、という当然の帰結に気付いてしまった。
「…………」
身近な人──肉親の死をまだ知らない一葉は、どんなふうな表情をした方がいいのかわからなくなって、目線が定まらない。
そんな一葉を不思議な色の瞳で見ていた〝きひらちか〟は、すぐに明るい笑顔になって、五十音のノートを指で指し、注意を引くようにした。
まるで〝湿っぽいのはきらいなんです!〟とでも言うように。
元気いっぱいな振舞いでカメラを要求して、ノートに取りついてみせる。
〝か・す・゛・は・ち・や・ん……て・゛・い・い・て・゛・す・か〟…──
それから〝きひらちか〟は、最後に指で〝?〟を描くようにして終えた。
一葉は、『?』や『!』も必要かしら、と思いながら、〝きひらちか〟に頷いて言う。
「──うん。〝かずはちゃん〟、で……」 そう言って笑ってみせた。
カメラを向けると、液晶の中で〝きひらちか〟も笑い返してくれた。
それからまた、五十音の方に意識を向けさせる。
〝わ・た・し・の・こ・と・は……ち・か……て・゛〟
「うん……。〝ちか〟、だね?」
そう言ってあげると、ちかは、じーんと感激したように両の手を胸の前に置き、それから本当に嬉しそうに笑った。
◆ ◆ ◇
そうやって、曲がりなりにも〝話せる〟ようになると、二人はバッテリーが切れるまで、いろいろな情報を交換し合った。
〝ちか〟は漢字で〝千歌〟と書くのを教えてもらった。
──千歌。素敵な名前だと思った。
実は千歌は一葉と同じ年生れの同学年だった。
三年前の春、中学入学の直前に12歳で亡くなったとのことだった。交通事故だったそうだ。
その事実に再び一葉の表情が曇りそうになると、千歌の方から気遣いを見せて話題を変えてくれた。
紀平せんぱい──正道とは〝血の繋がりのない〟義理の兄妹で、十年前に両親が結婚したことで、それぞれの連れ子だった二人は、兄妹になったということだった。
それで一葉は、せんぱいの周囲に女の子の影が感じられない理由が、何となくわかったということにした。
いま千歌は、幽霊とはいえ兄と一つ屋根の下、生前に住んでいた家の自分の部屋で暮らして(?)いるのだそうだ。
幽霊も寝なくちゃいけないの? と訊ねたところ、千歌は首を横に振った。
幽霊は眠るということはないらしい。
何もやることのない一人きりの夜は、部屋の片隅でじっとしているのだそうだ。
夜の街をさ迷ってもいいことはないと、千歌は言った。
そう応えたときの千歌の表情を見たとき、一葉は何だか気遣いの出来ない自分のことを、ちょっと嫌いになった。
一方、千歌の方は、一葉が何でカメラを始めたのかを訊きたがった。
あれやこれやともっともらしく聞こえる理由を並べはしたものの、聞き上手の部類の千歌の前に、結局、一葉は紀平正道が目当てで写真部に入った友人 (とっくに写真部は辞めてしまっている)に連れられて入部して、やっぱり〝ミイラ取りがミイラになった〟ことを白状させられた。
でも、いまは真面目に写真に取り組んでいることを一葉が主張すると、千歌は羨ましそうに笑って、自分も中学に入っていたら、写真部をやってみたかったなと、言ったのだった…──。
◆ ◆ ◇
そうやってあたしは、〝千歌〟という存在を知ったのだった。
彼女がなぜ幽霊でいて、あたしの撮るカメラの写真の中に現れたのか、その理由も訊いた。
〝未練〟があるの、……って、そう彼女は言った。
お兄ちゃんになって一緒に暮らした男の子に、告げたかった想い…──。
だから三年間、ずっと現世に留まっていたという。
三年間、ずっとお兄ちゃんに語りかけてきたのだという。
言葉を交わすことは出来なくても、ひょっとしたら、何かの間違いで、想いが伝わることがあるかも知れない、って……。
奇跡が起こるかも知れない、って。
ずっとひとりぼっちで、がんばってきたんだ。
──ひとりぼっち……。
それを想うと、あたしはなんだか怖くなって、千歌が笑っていられるのを、すごいことだと思った。
──でも、もう、この世に居続けることは出来なくなるのだそうだ。
もう、迎えが来てしまうという……。
そんなとき、千歌の前に現れたのがあたしだった…──。
幽霊の千歌の姿を写真に写し取れる人間。千歌のことが見えている人間。
……それがあたし、新澤一葉だった。
あたしは千歌に頼まれた。
「迎えが来てしまうまでに願いを叶えるのを手伝って欲しい」と。
──…何とかしてあげたい……。
そう思うあたしに、〝あたしの中のあたし〟が乃理子のお母さんの言葉を投げ掛けてくる。
〝何かしてあげたいと手を差し出すなら最後まで面倒みる。
中途半端が一番危険。
それが出来ないなら手は差し出しちゃダメ〟
……重たい言葉なんだろうと、漠然と思う。
その夜のあたしは、頭の中がぐるぐると回ってしまって、なかなか寝付くことが出来なかった。




