66話 名のない精霊
最近神様の出かける頻度が増えました。どうしたのか尋ねてみれば、
「何でもないわ。心配しなくて大丈夫よ」
としか答えてくれません。……確かに神様がそう言うのなら大丈夫なのでしょう。でも、どうしてなのか、その答えに不満を持ってしまっている自分がいます。神様の言うことは絶対。たとえ黒だとしても、神様が白だと言えばそれは白なのです。少なくとも私にとっては。
ですが、どういうわけか私は神様の言葉通りに受け止めることはできませんでした。神様の絶対の言葉に、不満を持ってしまったのです。……私は悪い子になってしまったのでしょうか。
「はぁ……」
神様に言われて読んでいる本棚の本もなかなか頭に入りません。本を読んでおくように言われたのですが、このペースでは神様が帰ってくるまでに少ししか読み進められません。
「はぁ……」
再び大きなため息が出てしまいました。
神様に不満を持ってしまっている自分と、神様の言う通りにできない自分が嫌になります。……もしかしたらそんな私のことが嫌いになって、神様は頻繁に家をーー
「ダメ! ダメです……」
そんなことを考えてはいけません。神様はそんなに心の狭い神様ではないではありませんか。
「気分転換にお茶でもーー」
こんな鬱々とした気分を少しでも晴らそうと思ったところで、本に書いてあるとある言葉に目が止まりました。
「……名前?」
私の知らない言葉です。神様に知識を与えられたと言っても、知らないことはまだまだたくさんあります。こういう時は……、
「……よいしょ」
本棚の隅に置かれているとても分厚い本。神様が言うには、この本はいろんな言葉の意味が載っている素晴らしい本なのだとか。使い方も教えてもらっているのですが、なにぶんその本は重いので、私にはそう頻繁に使えるものではありません。
でもこの時、どういうわけか、私はこの言葉に惹かれていたのです。本が重たいだとか、捲るのが大変だとか、そんな気持ちはどこかに消え去って、ただ一心にその言葉の意味を調べました。
悪戦苦闘する中、数分後。ようやく私はその言葉を見つけることができました。そしてその意味は……、
「“物や人に与えられる呼び名”……ですか」
確かに私は自然と話していましたが、確かに物には一つ一つ名前がありました。“お茶”もそうですし、あの憎っくき“扉”もそうです。
……そういえば何ヶ月か前にこの神様の家にやってきたあの人は、神様のことを“天照”と呼んでいた気がします。もしかしてそれが神様の“名前”なのでしょうか。でもどうして私はそれを知らなかったのでしょう。
……どうして私には“名前”が無いのでしょう。
「ただいま」
「おかえりなさい、神様」
「いい子にしてた? 今日はあなたにお土産がーー」
「神様」
「……どうしたの?」
「どうして私には“名前”が無いのですか?」
「っ!」
……神様のその行動ではっきりしました。意図的に私に名前という言葉を教えなかったのでしょう。動揺する神様なんて、初めて見ました。
「……そう。ついに知ってしまったのね」
「今日読んでいた本に書いてありました」
「えっ?」
えっ?
「ほ、本棚の本に?」
「はい」
「……見せてもらえる?」
「……どうぞ」
神様が本に目を通し終わると、目を瞑って大きなため息を吐きました。
「……まさかまだ残っていたなんて。それに辞書の使い方なんて教えていなければ」
「まさかとは思いますが、抜き忘れていたとか?」
「……」
「……そうですか」
完璧だと思っていた神様でしたが、どうやら神様にもミスはあるようです。私の視線から逃げるように目をそらす神様を見て、今までの私の中の神様像が音を立ててガラガラと崩れ去ってしまいました。
「それで、どうして私に名前のことを教えてくれなかったのですか?」
「……ごほん。そうね、知られてしまったのだし説明しないといけないわね」
いや、さっきの間抜けそうな神様を見ていますから、今更キリッと真面目な表情をしても遅いですよ。
「……お土産あげないわよ?」
「やることが小さいですね」
「……むぅ」
大人の女性。安心する。母のように温かい人。それが私の中の神様だったのですが、……今はとても子供っぽく見えます。特にその頬を膨らませているところとか。
「……まぁいいわ。それで、あなたに“名前”という言葉を教えなかったのには、もちろん理由があるわ」
「それはどうしてですか?」
「質問に質問を返してしまうけれど、あなたは今名前が欲しいと思ってる?」
名前、ですか。生き物だけじゃなくて物でさえ持っているものですから、
「欲しい、です」
「……そうよね。でも、私からはあげられないし、誰かから貰うこともできないわ」
「どうしてですか? 誰もが持っているものなんですよね?」
「ええ。でも無理よ。なぜなら……、あなたが精霊だから」
「精霊、だから?」
「そう。精霊とは誰からも縛られない自由な存在。そんなあなた達を“名前”という鎖で縛ることはできないわ。だから、あなた達に名前を付ける方法は無いの」
「神様でも、ですか?」
「ええ。精霊であるあなたに名前を付けることはできないわ」
「……そう、ですか」
なぜでしょう。無性に悲しくなってしまうのは。神様の話通りなら、私と同じ精霊はみんな持っていないものなはずなのに。
でも、私は名前が欲しいと思った。私が私であるための証明が欲しかった。
「……ごめんなさい」
「どうして神様が謝るんですか?」
「あなたが名前を欲しいと思ってしまっているのは、私のせいだから」
「……どういうことですか?」
「私はあなたに知識を与えた。本来知識など持って生まれないはずの精霊に、私はできる限りの知識を植え付けたの。そのせいで、悩むことを覚えてしまった」
……そっか。私がこうして悩んでいるのは、知識があったせいなのですね。知識さえなければ、こうして悩むこともなかった。考えることもなかった。ただただ、己が本能のままに行動する存在になっていた。
「……神様」
「……」
見れば、神様はとても辛そうな顔をしていました。私の精霊としての生を変えてしまったことを、後悔しているのかもしれません。知識さえなければ、こうして私が苦しむこともなかったのですから。
でも、これだけは言えます。
「神様、私を創ってくださって、本当にありがとうございます」
「……どうして?」
「確かに悩むことは辛いです。苦しいです。でも、私が普通の精霊なら、こうして神様と会話することもできなかった。一緒におやつを食べることも、一緒にお茶を飲むことも、一緒に散歩することも、一緒に寝ることも。おはようを言うことも、ただいまを言うことも、おかえりを言うこともできませんでした。だから私に知識を与えてくれて、本当に嬉しいんです」
「……」
「それに神様は言ったじゃないですか」
「……?」
「悩んでも、自分の答えならそれでいい、って。だから、私の答えは、生まれてきて良かった。ですよ」
「…………ありがとう」
神様はそう言って、いつものように私をその温かな手のひらで包み込んでくれました。
なんだか少し神様との距離が近づいたような気がした私は、思い切ってもう一つ疑問に思っていたことを聞くことにしました。
「神様、この前あの男の人と話をしていた、“あの子”って、誰ですか?」
「……そうね。あなたにも関係してくることだし、そろそろ話しておきましょうか」
私にも関係してくる? でも私はあの子のことなんて知らないはず。
「あなたには、あの子と旅をして、そしてあの子を支えてもらいたいのよ」
旅? 私がその子と一緒に?
「どうしてですか?」
「あの子、唯斗はね、人間なんだけれど、あなた達精霊に近い性質を持っているの。つまり“自由”ね」
「人間なのにですか?」
「そう。そして唯一、あなたに名前を付けることができるかもしれない子よ」
「えっ!?」
それは衝撃でした。神様でさえ出来ないことがその子ならできるなんて、到底信じられないことでした。でも、神様の言うことです。嘘であるはずがありません。
「順を追って説明するわね……」
それから神様の話を聞けば聞くほど、信じられないようなことばかりでした。
人の身でありながら神力を持つ半人半神。そして“自由”という規格外の力を司る。今はこの前会った、タケミカヅチという神様に戦い方を教わっている、などなど。私の知っている人間とは程遠い存在でした。
……この前の男の人って神様だったんですね。と思ったのは私だけの秘密です。
「それで、あなたには唯斗のサポートをしてもらいたいのよ」
「サポート、ですか」
「もちろん断ってもいいのよ。別の手も考えてあるから。ただ、あなたはあの子と一緒にいた方が良いかもしれないわ」
「どうしてですか?」
「さっきあの子が自由を司っているって言ったでしょう? そしてあなたの本質も自由。だから、相性がぴったしなのよ」
「確かにそうかもしれませんが……」
「私と一緒だったら、そうやって私を敬ってしまうでしょう? それは本来のあなたではないの」
「そんな……。私は神様と一緒にいてはダメなのですか?」
「一緒にいてはダメとは当然言わないわ。けれど、あの子と会ってから決めて欲しいの。多分あなたにとってあの子の側はとても居心地のいい場所だと思うから」
「……分かりました。会ってから決めます」
唯斗という半人半神。色々と気にはなりますが、神様の言う通り会ってみないことには分からないでしょう。どうやらタケミカヅチという神様との修行が終わる頃、会わせてくれるようです。
それまでは私も力をつけることにします。神様を守るにしても、その少年を守るにしても、力というのは必要になってくるでしょうから。
ただ神様の話を聞いて一つ思ったことがありました。
……私とどこか似た境遇の彼は、私と同じように悩みを持って苦しんでいるのでしょうか。




