閑話 フィリアの一日②
「ゴホォッ! ゴホッ! ……な、なッ! なッ!!」
男が大きく咳き込み、まるで幽霊でも見たかのように市松人形を指差す。
「なんなんだ! あれは!?」
「…は。おそらく姫様が大切にされている人形のことかと」
顔が青ざめ、足が震えて未だ立つことのできない男の疑問に、彼のそばにいた従者は淡々と答えた。
倒れている主に手を貸す、又は、倒れている主の前に立ち庇うというのが従者の務めであるはずだ。だというのに、彼の従者はそのどちらも行動に移さない。むしろ、地面に腰をついている主に冷たい視線を送りつけるという始末だ。もちろんそれに周囲の人間は気づいているのだが、市松人形から目を離せない男は気が付かない。
「に、人形!? 嘘だ! 人形は空なんて飛ぶはずないだろ!!」
ごもっとも。
おそらくフィリアを除く、ここにいる全ての人の気持ちが一致しただろう。普通、人形は空を飛ばない。
しかし、実際に飛んでいるのだから受け入れざるを得ないだろう。そもそも、今までに男は飛んでいる人形の姿を見ているはずなのだが、どうやら男はそれに気がついていなかったらしい。
「絶対に魔物だ! そうだ、そうに違いない!! 衛兵! 衛兵はまだなのか!?」
「衛兵は来ません。先日お話した私の話を聞いておられなかったので?」
「は? なんのことだ?」
従者は隠すことなく大きな溜息を吐いた。あの市松人形が魔物でないことは、国王より周知の事実である。そしてそれを広めたのが、貴族に仕える従者達だ。
それは男に仕える従者とて例外ではなく、いつぞやの朝の報告で確かに伝えていた。ただ、男が聞いていなかったというだけの話だった。
とは言え、貴族の間でもかなり有名になっている話だ。だったら貴族間の交流時に耳にすることくらいあるはず。と、そこまで考えたところで、それは無いと従者は首を左右に振った。
なぜなら、自分の主は貴族の間でも浮いた存在。
いわゆるボッチなのだから。
その理由は言わずもがな。普段の彼の行動を考えれば、周囲の取る行動は明らかである。
「ッ! 何か知らないが、あの人形が私を突き飛ばしたことには変わりないだろう! 今すぐあの人形を取り押さえろ!!」
半狂乱になって騒ぎ立てる男に対し、フィリアはどうすれば穏便に済ませられるか、冷静に思考を巡らせていた。
(多分あの人の言っていることは合ってる。イッちゃんが私を守ってくれたんだろう。でもそれを認めて仕舞えば、イッちゃんの立場が悪くなってしまう)
幸い、市松人形が男を突き飛ばした瞬間は誰にも見られていなかった。それは目の前で見ていたフィリアが一番よく知っている。
それさえ押し通せば、あとはどうとでも誤魔化せるだろう。
フィリアは瞬時にそう結論付けた。
「……大丈夫ですか? 突然転んでしまったようですが」
「えっ?」
「もしかしたら貧血かもしれませんね。一度お医者様に診て貰った方がいいかもしれません。もしよろしければ、私の方からいいお医者様をご紹介致しますが」
「い、いや、だから私はその人形にーー」
「あら、面白いことを仰いますね。人形にそのような力があるはずが御座いません。私の人形は確かに空を飛ぶことのできる変わった人形ではありますが、精々本を持ってもらうくらいのことしかして貰っていませんから」
フィリアは微笑みながらそう告げる。
笑顔というのは重要だ。
笑顔は相手の警戒心を解き、心に隙を作り、場合によっては威圧することもできる、万能な武器だ。
特に、女性の微笑みは男に対して効果的だと、エルムス国初代女王が残した書物に書かれていた。
さらにこれでは終わらない。
「さあ、いつまでも座っていてはお召し物が汚れてしまいますよ」
そう言ってフィリアは優しく手を差し出す。
これが女王の残した技の一つ。男を従順な犬へと仕立て上げる、天使の一撃。
これを食らった男は……、
「……は、はい」
ーー落ちる。
加えて、相手が手を取った後にもう一度ニコリと笑いかけるとなお効果的だ。
フィリアは男を立ち上がらせ、綺麗な礼を決める。
「それでは、失礼致します」
フィリアがその場から離れると、市松人形はその後を追い、侍女もハッとしたように一礼してからその後を追った。
そして周囲に人がいなくなったところで、
「……はふぅー」
先ほどまでの姫は何だったのか、あれは別人だったのではないか、というほどに、フィリアは気の抜けた溜息を吐いた。
「ひ、姫さま?」
「あっ、す、すみません。ちょっと緊張が解けてしまって」
「あの、失礼だとは思いますが、先ほどの立ち振舞いは?」
「詳しくは言えませんけど、初代女王が書いた本に書いてありました」
「……それは女王としての立ち振舞いなのですか?」
「そうだと思います。ただ、何に関して書いてあるのかは、一部が擦り切れていて読めなかったのです」
「…………それは男を魅了するための立ち振舞いでは?」
「えっ?」
侍女の推測は正しかった。
その本の題名は、『男を落とす九十九の立ち振舞い』だったのだ。しかし、フィリアの言った通り、題名が擦り切れていて読むことができず、加えて『立ち振舞い』という文字だけ読めたために、フィリアは『女王としての立ち振舞い』だと勘違いしてしまった。
「えっ、えっ!?」
「……姫さま、今後その本は実践しないほうがよろしいでしょう」
「……はい」
顔を真っ赤に染めたフィリアが、俯きながら小さく返事を返した。
(ユート様と出会う前にこれを覚えておけば……)
なんて考えてしまったのは、フィリアだけの秘密である。
思わぬハプニングがあり、朝食後の休憩は無くなってしまった。そのことにフィリアは少々腹を立てていたが、どちらかといえば、あの男を惚れさせるような行動を取り羞恥を受けた、という逆恨みの方が強かったりする。
実際は『あんな男にさえ手を差し伸べる姫様はなんて慈悲深いお人なんだ』と、周囲の株が急上昇していたのだが、フィリアはまだそれに気づいていない。
「フィリア、次はこれについてだが」
「はい、お父様」
そんなことも、国王である父親から今のエルムス国について教わっている際には、頭の片隅にすら残っていなかった。
今のエルムス国がどうなっているのか。それは過去の書物を読んだところで知ることなどできやしない。
そのため、フィリアはこうして執務をこなしている父親の隣で説明を受けながら仕事の手伝いをしているのだ。
過去を見て対策を考えることも重要だ。しかし、一番大切なのは今を見つめること。今を理解していなければ、過去を知ったところで意味などない。過去はあくまで補助的要素に過ぎない。そう考えたフィリアは、一日の大半をこれに当てる。
昼食が終えれば父親と仕事。そして、夕食が終えれば、寝る前までまた仕事だ。たとえ父親の補助といえど、その少女の華奢な体と精神にかかる負担は少なくは無いだろう。
「……今日はここまでだ」
「もうそんな時間ですか?」
「ああ、今日もよく頑張ったな。何やら朝から騒ぎがあったようだが?」
「騒ぎ…? ッ! いえ、なんでもありません!」
「そうか? 何かあったらいつでも言いなさい」
「はい、お父様。今日もありがとうございました」
「ゆっくり休みなさい。おやすみ」
「お休みなさい」
執務室を出て、フィリアが真っ先に向かったのは、
「こんばんは、お母様」
「あら、こんばんは。今日は少し遅かったのね」
母親であるエルミアの元だ。
朝食は一緒に取るものの、昼食や夕食は仕事の関係上どうしてもずれてしまい、一緒に食べられないことが多い。そのため、フィリアは一日の終わりに必ず母親に会いにいくようにしているのだ。
かといって、何か特別な話をする訳では無い。今日は何があったのか、何が印象的だったのか、何か良いことがあったのか、何か悪いことがあったのか。そういったことを、楽しそうに、そして時には辛そうにしながらも報告していく。
「……そう。今日も頑張ったのね。偉いわ」
「ふふっ」
エルミアに優しく頭を撫でられ、フィリアはどこか照れ臭そうに笑みをこぼす。
「その貴族に対してしてしまったことは問題ないわ。私の聞いた話だと、あなたの行動はとても好印象に捉えられていたみたいだから」
「そうなのですか? ……でも恥ずかしいです」
「大丈夫よ。聞く限り問題ではないから。でも、あまりのその本を実践しないほうがいいわね」
「はい。そうします」
「ふふっ。ユートくんにできなくて残念だったわね」
「なッ! どうしてそれを!?」
「あなたの考えていることくらい分かるわ。私の愛しい娘ですもの」
「……うぅ」
真っ赤に染まった顔が見られたくない一心で、フィリアはエルミアの胸に顔を押し当て、コアラのように抱きついた。
「……まだまだ子供ね」
腕の中に抱かれていた頃と比べると随分と大きくなったものだと、エルミアは感じた。子供の成長は早いものだ。
とはいえ、まだ子供。こんな甘えるような姿を見せられたら、尚のこと。
でも一つ言えることがある。
「でも、あなたはちゃんと成長しているわ」
「……お母様」
「だから、安心しなさい。それに、失敗しても私達が付いているわ」
「……はい」
『私達が付いている』
その言葉を聞くだけで、フィリアは心が温かくなるのを感じた。
自分は一人じゃない。それが分かるだけで、どこまでも駆けて行ける気がした。
「……」
「ふふっ。もちろんあなたも入っているわ」
甘えるように、そしてどこか抗議するかのように、市松人形がエルミアにすり寄ってきた。エルミアが市松人形の頭を撫でてあげると、機嫌良さげにエルミアに抱きつく。もしかすると、フィリアの真似をしているのかもしれない。
それを見たフィリアは、市松人形を自分とエルミアの間に入れ、再び抱きしめた。
「ふふっ。娘がもう一人できたみたいね」
もう子供を産むことができないエルミアだが、二人を抱きしめ返し、幸せを噛み締めた。
その後、フィリアは自室に戻った。すると、それを待っていたかのようなタイミングで扉をノックする音が響く。
「どうぞ」
「失礼します。姫さま」
「ごめんなさい。今日は少し遅くなってしまいました」
「いえ。……では失礼します」
侍女は温かいお湯の入った桶にタオルを付け、固く絞り、フィリアの体を拭き始めた。
「熱くはありませんか?」
「はい、大丈夫です」
「痛くはありませんか?」
「ふふっ。大丈夫ですよ。とっても気持ちいいです」
侍女を始めたばかりの頃は力強く拭きすぎたり、逆に弱く拭きすぎたりと、色々あったものだが、今となっては手馴れたものだ。
侍女はフィリアの体に触れながら思う。長い間軟禁状態で、ろくに筋肉が付いていない状態だったフィリアの体が、少しずつ引き締まってきていると。
それはとても喜ばしいことだった。しかし、その成長の早さゆえに、侍女の不安が晴れることはない。
「……姫さま、無理をなさってはいませんか?」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。私は元気ですから」
「ですが……」
「平気です」
そう言われてしまうと、応援したくなる気持ちから強く言えなくなってしまう。
侍女なんとも言えずに、言葉を噤んだ。
「はふぅ。……でもそろそろ眠たいので寝ますね。今日もありがとうございました」
「……いえ。ごゆっくりお休みになってください」
「はい。……イッちゃんもおやすみ」
フィリアは、朝とは色違いのキャミソールに着替えると、市松人形をひと撫でして眠りについた。
侍女が片付けを終え、部屋の明かりを消す頃には、もう既にフィリアは夢の中にいた。随分と寝付きのいいタイプのようだ。
侍女はそれを確認すると、そっと起こさないように静かに退出する。
「お休みなさい」と、小さく呟いて。




