六
ハルデン卿は、最後まで口を挟まずに聞いた。
五十がらみの、肩の厚い男だった。若いころは軍にいたという。館の広間は広いわりに調度が少なく、壁には、絵を外した跡が四角く白く残っていた。
ユストは立ったまま、裁定を読み上げた。本文を古語で。それから都の言葉で。欄外の注も、省かなかった。「後の書記に願う」のところで声が少し揺れたが、止まりはしなかった。
読み終えると、広間は静かになった。
「その紙は、わしの書庫にあったのだな」
「はい」
「わしの曾祖父の印か」
「高祖父さまでございます」
卿は封土状と裁定を、机の上に並べて置いた。長いこと見ていた。
「顧問どの。あなたの見立てでは、わしの負けか」
「勝ち負けを申し上げる立場にはありません」と真壁は言った。「ただ、数字を一つ、ご覧いただきたいんです」
帳面を開いた。一戸に六たな。四十二戸。枯れ枝で賄えるのは、焚きつけの束が十ばかり。
「卿は、枯れ枝と茸と木の実は村に許すと仰せでした。寛大なお申し出だと思います。ですが、これでは村は冬を越せません」
「薪は、枝を拾えば足りるものだと思っていた」
言い訳の調子ではなかった。知らなかったことを、知らなかったと言っているだけだった。
「私も、三日前までそう思っていました」
卿は初めて、真壁の顔をまともに見た。それから足もとに目を落とした。
「その靴は」
「借りものです。森を歩くのに」
「……なるほど」
卿は立ち上がった。
「ユスト。馬は要らん。長靴を出させろ」
*
ドルフは、領主が歩いて来るのを見ても、たいして驚かなかった。
帽子を取り、型どおりに頭を下げ、それから、真壁のときと同じことをした。卿の足もとを見て、何か言ったのだ。
ユストが固まった。
「訳せ」と卿が言った。
「……よい靴だ、と。都の人とは違う、と申しております」
卿は鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
「十四年、行軍したからな」
老人は歩き出した。孫がついていく。その後ろを、領主と、書記と、顧問が歩いた。
最初の株の前で、ドルフは立ち止まった。真壁に見せたのと同じ株だった。幹を掌で叩き、孫にではなく、今度は卿に向かって話した。言葉は相変わらず村のものだったが、速さは半分になっていた。
卿は、ユストが訳す前に手を上げた。
「待て。少しはわかる。子どものころ、乳母がこの村の女だった」
老人が、ほう、という顔をした。
「十二の冬、と言ったか」
「はい。伐ってから十二の冬で、薪によい太さになると」
卿は株にしゃがみ込んだ。厚い手で、切り口の古い層を撫でた。幹の束の根元には、いまの幹より前に伐られた跡が、瘤のように幾重にも盛り上がっている。
「これは、何度伐った跡だ」
ユストが訊ね、老人が答え、孫が指を折った。
「八度か、九度と。ドルフの祖父の、その父の代に、最初の斧を入れた株だそうで」
「百年か」
卿は呟いた。
「裁定と、同じころだな」
誰も何も言わなかった。卿は株の縁に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「わしは、木というものは、放っておけば生えているものだと思っていた」
ユストが、訳すべきかどうか迷う顔をした。卿が顎で促した。老人は訳を聞き、声を上げて笑い、長く喋った。
「何と申した」
「……麦も、放っておけば生えていると思っておいでか、と」
ユストの声は消え入りそうだった。卿は今度は、はっきりと笑った。
「言うわ」
それから一行は、のこしぎの樫を見上げ、沢の縁まで下りた。みずのきの前で、老人はまた声を変え、ゆっくりと話した。水車が止まった春の話だった。
卿は沢の向こう岸を見ていた。
「下の村の水車は、わしの水車だ」
「はい」
「粉挽きの上がりは、わしの歳入の三分の一になる」
真壁は口を開きかけて、やめた。言う必要がなかった。卿は自分で勘定をしていた。
帰りの坂で、卿は真壁に並んだ。
「顧問どの。わしには負担金がある。王都は、春までに銀を納めよと言ってきている。ベルクの商人は、炭を千俵と言った」
「存じています」
「この森を、あの爺のやり方で回したら、千俵は出るか」
「わかりません。それを数えられるのは、私ではなくドルフさんです」
卿は前を行く老人の、曲がった背中を見た。
「半分も出まいな」
「たぶん」
「半分で、商人が首を縦に振ると思うか」
「それも、わかりません。ただ」
真壁は、ぬかるみを跨いだ。もう、足もとを見ずに跨げるようになっていた。
「ベルクの森は、炉の周りから禿げはじめているそうです。あちらは千俵を、一度だけ欲しいわけではないでしょう」
卿は答えなかった。
森の出口で、老人が振り返り、卿に何か言った。短かった。卿はユストを見ずに頷き、同じくらい短く、村の言葉で答えた。発音はひどかったらしく、孫が吹き出し、祖父に頭をはたかれた。
「何と」
真壁が小声で訊くと、ユストは、この数日で初めて見る顔をしていた。
「帰りに寄れ、粥がある、と」
「卿は」
「寄る、と」




