四
蝋燭は二本目に入っていた。
机の上には、封土状の写しと、真壁の帳面と、ユストが僧房から持ってきた古語の語彙集が広げてある。語彙集は神学校で使ったものだそうで、頁の端が手擦れで丸くなっていた。
「まず、かえりぎです」と真壁は言った。「取り決めを書くなら、この木とあの木を、文書の上で区別できなければならない。古語で何と呼べばいいでしょう」
ユストはしばらく語彙集を繰っていた。やがて鵞ペンを取り、反故紙の裏に、迷いのない手つきで一語を書いた。
古語の「再び」と「生ずる」と「樹」を連ねた、堂々たる合成語だった。真壁の頭の中では、それは「再生樹」というほどの響きに聞こえた。
「立派ですね」
「教父の著作に、似た組み立ての語がございます」ユストの声には、控えめな誇りがあった。「これなら宮廷の法務官にも、俗語の音写と侮られることはありますまい」
続けて彼は、のこしぎに「保存樹」、みずのきに「水源樹」に当たる語を作った。三つ並ぶと、いかにも法文らしく見えた。
真壁は三つの語を眺めた。整っている。条例の定義規定にそのまま置けそうなほど整っている。
それが、引っかかった。
「ユストさん。これを、ドルフさんは読めますか」
「読めは、いたしません。ですが、寄り合いで私が読み上げて、意味を説けば」
「では明日、説いてみてもらえますか。取り決めに使う前に」
*
翌朝、ドルフは戸口で斧の柄をすげ替えていた。
ユストは紙を手に、まず村の言葉で前置きをし、それから古語の三語を、ひとつずつ、聖句を読むときの声で読み上げた。
老人は手を止めて聞いていた。聞き終えると、孫と顔を見合わせ、それから訊いた。短い問いだった。
ユストの耳が赤くなった。
「何と」
「……誰の言葉だ、それは、と」
老人は怒ってはいなかった。むしろ面白がっていた。ユストがもう一度、今度は意味を噛み砕いて説くと、ふんふんと頷き、最後にまた何か言って、斧の柄に目を戻した。
「坊さまがそう呼びたいなら呼べばいい。わしらは、かえりぎと呼ぶ、と」
帰り道、ユストは長いこと黙っていた。
「あの語は、間違ってはおりません」
「間違っていないと思います」
「では、なぜ」
真壁は借りものの木靴で、ぬかるみを一つ跨いだ。
「私のいた国でも、決まりを書く言葉は難しかったんです。間違ってはいない。ただ、窓口に来た人に読んで聞かせると、たいてい同じことを訊かれました。それで結局、私はどうすればいいんですか、と」
「……」
「ドルフさんがあの語を覚えなければ、取り決めは二つできます。紙の上のものと、森の中のものと。紙の上で再生樹を伐るなと書いても、森でかえりぎを伐っている人は、自分のことだと思わない」
ユストは立ち止まった。
「それは、いまの封土状と同じでございますね」
「ええ。もう一枚、増やすだけになる」
*
その夜は、蝋燭を一本しか使わなかった。
ユストは語彙集を閉じ、代わりに、僧服の内側から小さな帳面を出した。革の表紙が汗で黒ずんでいる。
「お見せするつもりは、なかったのですが」
開くと、細かい字で、村の言葉がびっしりと書き留めてあった。都の文字で音を写し、横に古語で意味が添えてある。添えきれずに、疑問の印だけが付いた語も多い。
「説教を、わかるようにしたかったのです。村の者が告解で使う言い回しを、聞いたそばから」
真壁は頁を繰った。かえりぎ、があった。のこしぎ、もあった。横の古語の欄は、どちらも空いていた。
「二年前から、空いたままでございます」
「空けたままにしませんか」
「は」
「語は村のものを、そのまま使う。かえりぎは、かえりぎ。古語の正文にも、音を写して書く。その代わり、中身を定義で縛るんです。たとえば」
真壁は自分の帳面を引き寄せた。
かえりぎ とは、伐りたる株より芽を生じ、ふたたび伐るべく育てらるる木をいう。
「株があること。そこから生えていること。それが目印になる。ドルフさんに訊いても、見ればわかると言うでしょうが、見て何がわかるのかを書いておけば、森を知らない人間にも、争いになったとき確かめられる」
ユストは定義を二度読んだ。
「語は村から借り、縛りは古語で書く」
「縛りも、読み上げてわかる言葉で書きたい。そこはあなたに頼るしかありません」
若い書記は鵞ペンを取り、少し考えて、真壁の文を村の言葉に移しはじめた。昨夜の迷いのなさはなかった。一語書いては止まり、口の中で音にして確かめ、消して、書き直す。
真壁は黙って待った。例規審査の机でも、こういう沈黙には覚えがあった。良い文言が出てくる前の沈黙だ。
かえりぎ、のこしぎ、みずのき。三つの定義ができたときには、蝋燭は半分になっていた。
「残るのは」とユストが言った。
「『もつ』です」
二人は同時に、帳面の同じ行を見た。伐る、世話する、伐らずにおく。
これには、借りてくる名詞がなかった。村の者はそれを「もつ」と言い、その一語が、領主の耳には別の意味に聞こえる。語をそのまま使えば、誤解もそのまま取り決めに入る。
ユストがいくつか案を口にした。どれも三つのうちの一つしか言えていなかった。真壁も日本語で考えてみた。管理。利用。育成。入会。どれも違うか、訳しようがなかった。
蝋燭が尽きかけたころ、ユストがぽつりと言った。
「四代前の裁定が残っていると、仰せでしたね」
「書庫のどこかに。まだ見つけていませんが」
「百年前の書記も、同じ村の者から、同じ言葉を聞いたはずでございます」
真壁は棚を見上げた。誰にも読まれないまま積まれた、百年ぶんの羊皮紙の束。
帳面に、一行足した。
五、「もつ」の訳語は保留。先例を当たる。




