二
カンパーニュの一行は、昼前に館に着いた。
馬車が二台。護衛が四騎。アルデンの宮廷が真壁を送り出したときより、ずっと立派だった。先の馬車から降りてきたのは、日に焼けた三十代半ばの男で、カンパーニュ風の緑の上着を着ているが、襟の着こなしがどこかぎこちなかった。
後ろの馬車からは、灰色の服の若い女が降りた。手に、革表紙の帳面と、携帯用の墨壺を持っていた。
広間で、ハルデン卿が型どおりに客を迎えた。
「カンパーニュ王国顧問、マコト・トガワどの。ようこそ、ハルデンの領へ」
「お招きにあずかり、光栄です」
都の言葉だった。カンパーニュの訛りがある。言葉そのものは流暢だが、十年かけて覚えた人の話し方だと、真壁にはわかった。召喚の術が都の言葉をくれたのは、真壁だけだったのかもしれない。
「こちらは、アルデン王国の顧問どのだ」
卿が真壁を示した。真壁は一礼した。
「マカベです。この領で、法の相談を受けております」
トガワは礼を返しかけて、止まった。
視線が、真壁の手元に落ちていた。ここへ来る前まで書庫で使っていた帳面を、真壁はそのまま持ってきていた。開いた頁の下に、森の取り決めに署名したあと、何の気なしに練習した自分の名前があった。この国の文字と、その下に、四文字の漢字。
トガワの喉が動いた。
「……それ」
声が、少しかすれていた。
「漢字、ですよね」
日本語だった。
真壁は、一瞬、返事ができなかった。九か月。召喚されてから、日本語を耳で聞いたのは、自分の独り言だけだった。
「……はい」
口から出た自分の声が、妙に遠く聞こえた。古語も都の言葉も、術のおかげで考えるより先に出てくる。それなのに、生まれてから四十年使ってきた言葉のほうが、一拍遅れた。
「真壁です。真壁恭介。市役所で、法規係長をしていました」
「法規係」トガワは目を丸くした。それから、心の底から嬉しそうに笑った。「法規係長! 最高じゃないですか」
「この国では、外れと言われました」
「そりゃ、宮廷の人たちにはわかんないですよ」トガワは首を振った。「戸川です。戸川誠。作物学の研究室にいました。つくばで、豆の根っこばっかり見てたんです。十年前にこっちに」
そこで彼は、一語だけ、都の言葉で何か言った。それから気づいて、照れたように頭をかいた。
「すみません。日本語で、出てこない単語が増えてきて」
「わかります」
わかる、と思った。九か月でさえ、そうなのだ。
周りの誰も、二人が何を話しているのかわからなかった。ハルデン卿は眉を上げて、二人を見比べていた。ユストは、真壁がこれほど速く、これほど知らない響きの言葉で喋るのを、初めて聞いていた。
灰色の服の女だけが、帳面を開いたまま、鵞ペンを宙に止めていた。
「どこの出身ですか」と戸川が訊いた。
「北のほうの、地方都市です」
「僕は」戸川は言いかけて、少し笑った。「いや、もうどこでもいいか。どうせ帰れないし」
軽い口調だった。けれど真壁には、その言い方が、十年かけてそこへたどり着いた人のものに聞こえた。
戸川は、ちらりと後ろを振り返った。それから声を落として、早口で続けた。
「真壁さん、実は、カンパーニュ、ちょっとまずいことになってて。麦は増えたんですけど、その分、地主が」
「トガワさま」
灰色の服の女が、一歩前に出ていた。
丁寧な、都の言葉だった。
「お話し中、失礼いたします。顧問どのも」
女は、真壁のほうに向き直り、軽く膝を折った。
「カンパーニュ宮廷書記官、マルグリットと申します。トガワさまのお言葉を記録するのが、私の務めでございます。恐れ入りますが、記録できない言葉でのお話は、ご遠慮いただけますでしょうか」
広間が静かになった。
戸川は、ばつの悪そうな顔をした。何か言い返しかけて、やめた。十年のあいだに、何度も同じことを言われてきたのだろう。
真壁は、女の帳面を見た。開いた頁には、几帳面な字で、今日の日付と、到着の時刻と、卿の挨拶が書き留めてあった。その下に、こう書いてあった。
——両顧問、異国の言葉にて談話。内容、記録能わず。
記録能わず。
真壁は、ローデ村の証文を思い出した。代書人の口の中にあって、どこにも書かれていなかったもの。誰にも検められなかったもの。
自分はいま、それと同じことをしていた。
「おっしゃるとおりです」
都の言葉で、真壁は言った。
マルグリットが、わずかに目を見開いた。抗議されると思っていたのだろう。
「失礼しました。以後は、都の言葉で話します。記録していただいて構いません」
「……恐れ入ります」
戸川が、真壁の顔をまじまじと見た。それから、肩をすくめて、都の言葉に切り替えた。訛りのある、けれど流暢な都の言葉だった。
「真面目ですね、マカベさん」
「職業病です。記録に残らないことは、私の国でも、無かったことになりましたから」
「私のところの役所も、そうでした」戸川は笑った。「議事録に載らない発言は、言ってないのと同じ、って」
マルグリットの鵞ペンが、さらさらと動いた。今度は、記録できる言葉だった。
ハルデン卿が咳払いをした。
「さて、トガワどの。森の視察とのことだが」
「ええ。カンパーニュでも、炭の需要が増えて、森の扱いに困っておりまして。アルデンの森の管理を、ぜひ拝見したいと」
戸川はそう言ってから、真壁のほうを見た。
「それと、さっき、ちらっと見えたんですが。マカベさんの帳面」
「帳面?」
「『越境の態様、根か種か』って。あれ、何の話です?」
真壁は、自分の帳面を見下ろした。十四項目。白いままの十四番目。
「……クローバーです」
「クローバー」
戸川の目が、急に輝いた。研究者の目だった。
「見せてもらえますか。その畑」




