第三話 越えてきた草
一
揉め事は、たった二軒のあいだで始まった。
一軒はカスパーの家だった。森の取り決めの寄り合いで、最後まで手を挙げなかったあの若者だ。彼は冬のあいだに町の市でカンパーニュの農法の話を聞きかじり、春になると、休ませていた畑にクローバーの種を蒔いた。休ませる畑をなくせば、麦が五割増える。隣国の賢者がそう教えたのだという。
もう一軒は、その東隣のベルタ婆さんの家だった。七十を越えた寡婦で、小さな畑で亜麻を育て、冬に糸を紡いで暮らしている。
初夏になると、カスパーのクローバーは境の畔を越え、ベルタ婆さんの亜麻畑の西の端に、赤い花を点々と咲かせた。
婆さんは怒った。亜麻が負ける、と。
そして婆さんの牛が、ある朝、自分の畑に生えたそのクローバーを、たらふく食べた。
カスパーも怒った。俺のクローバーを食った、と。
八か月前なら、二人は畔で怒鳴り合い、殴り合い、そのうち忘れていただろう。けれどいまのこの村には、紙に書いて決めるという前例があった。
二人は、そろって代官所へやって来た。
*
「整理させてください」
真壁は帳面を開いた。この八か月で、村の言葉は四割ほど聞き取れるようになっていた。それでも、怒っている老婆の早口は無理だった。ユストが横で訳している。
「まず、クローバーの種は、カスパーさんが買って蒔いた。これは争いがない」
二人が頷いた。
「その種から生えたクローバーが、境を越えて、ベルタさんの畑に生えた。これは、根が越えたのか、種が風で飛んだのか」
ユストが訳した。二人は顔を見合わせた。
カスパーは、根だと言った。根が伸びたのだから、自分のクローバーの一部だ。婆さんは、種だと言った。風が運んだものは、風のものだ。風は神さまのものだ。
「風の、責任」とユストが訳しながら、自分で困った顔をした。
真壁は帳面に書いた。
一、越境の態様 根か、種か。
「確かめる方法はありますか」
ドルフが呼ばれた。老人は畔にしゃがみ、境のすぐ脇と、そこから少し離れたところから、クローバーを三株、四株と、根ごと引き抜いた。それを畔の上に並べて見比べ、孫のニコに何か言った。少年が笑いをこらえた。
「両方だ、と申しております」ユストが訳した。「畔のすぐ脇の株は、根が畔の下を這って、カスパーの畑の株とつながっている。離れたところの株は、どこともつながっていない。こちらは風か鳥が種を運んだのだろう。どれがどちらかを見分けるには、一株ずつ抜くしかない、と」
真壁は、境の西側に咲いている赤い花を数えた。百は越えていた。
二、根によるものと種によるものの区別。要個別確認。
「次に、牛です。ベルタさんの牛が食べたのは、どのクローバーですか。根のほうですか、種のほうですか」
ユストは訳すのをためらった。それから、訳した。
婆さんは、牛にそんなことがわかるか、と叫んだ。それから、うちの牛は食べたのではない、と言い直した。味見をしただけだ、と。
カスパーは、味見で腹がふくれる牛がどこにいる、と言い返した。
三、牛の摂食量。要算定。
四、摂食と味見の区別。
四行目を書いてから、真壁は手を止めた。何を書いているのか、自分でもわからなくなっていた。
*
それから三日のうちに、揉め事は二軒では済まなくなった。
この村は、もともと揉め事の少ない村だった。隣の林檎が垣を越えて垂れていても、隣の鶏が庭先を掘り返していても、誰もがなんとなく気にはしながら、口に出して争うほどのことだとは思っていなかった。言い出せば角が立つ。角が立てば、この先もずっと隣に住む相手と気まずくなる。だから皆、黙っていた。
ところが、カスパーと婆さんが代官所へ申し立て、顧問が帳面を開いて一つずつ聞き取りをはじめたという話が広まると、村の空気が変わった。紙に書いて白黒をつけてもらえるのなら、ついでにあれも、これも。そういう気分が、家から家へ伝わっていった。長年飲み込んできた小さな不満を、皆が一斉に思い出したのだった。
ベルタ婆さんの家の南隣は、婆さんの林檎の枝が自分の畑に垂れていると言い出した。垂れた枝に生った林檎は誰のものか。落ちた林檎はどうか。
カスパーの家の北隣は、カスパーの鶏が毎朝自分の畑の種を掘り返していると言い出した。鶏が掘った種から、もし芽が出なかったら、その分の麦は誰が償うのか。
その北隣の西隣は、自分の家の井戸から隣が勝手に水を汲んでいると言い出した。もっともこれは、二十年前からのことだった。
皆、代官所へ来た。皆、紙に書いて決めてほしいと言った。
真壁の帳面は、四日目には十四項目になっていた。
十一、越境した枝の果実の帰属。樹上と落下後とで区別するか。
十二、家禽による播種の妨害。因果の立証方法。
十三、慣行的な汲水の権原。二十年の継続をどう評価するか。
十四、
十四の横は、白かった。
ユストは、書庫の隅の小机に突っ伏していた。この四日、朝から晩まで、怒っている人の言葉を訳しつづけていた。
ドルフだけが元気だった。老人は毎日代官所に来ては、誰かの訴えを横で聞き、楽しそうに頷いていた。
その日の夕方、老人は真壁の帳面を覗き込み、ニコに何か言った。少年が吹き出した。
「何と」
ユストが、突っ伏したまま答えた。
「……決めればいいだけのことを、なぜ調べるのか、と」
「決めるためには、調べないと」
ユストは顔を上げ、老人に訊き返した。老人はもう一度、同じことを、もっとゆっくり言った。
ユストはそれを聞いて、少し考え、訳しかけて、やめた。
「わかりません。私にも、何をおっしゃりたいのか」
真壁は帳面を見下ろした。十四項目。どれも、詰めれば詰めるほど、新しい問いが出てくる。
扉が叩かれた。
代官所の下役だった。館からの使いだという。
「顧問どの。卿からのお報せです。カンパーニュの賢者どのが、森の視察の途中で、明日、この領を通られるそうです」




