八
ベルトラムが発つ朝、王都からの早馬が着いた。
書状は二通あった。一通は法務官府の、見慣れた灰色の封蝋だった。もう一通は、深い緑の封蝋で、そこに押された紋章を、真壁は見たことがなかった。
牡鹿の角と、鍵が二本。
書状を受け取ったのは館の家令で、それを法務官に渡す前に、卿のところへ持ってきた。宛名を確かめるためだった。
卿は封蝋を見て、手を止めた。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬で、卿の顔から色が引いたのを、真壁は見た。森でも、商人の前でも、広間の裁きでも見なかった顔だった。
卿は何も言わずに、書状を家令に返した。
「法務官どのへ」
*
ベルトラムは、玄関の石段の上で、緑の封蝋の書状を開いた。
読むのに、時間はかからなかった。短い書状だったのだろう。読み終えると、丁寧に畳み直し、外套の内側にしまった。灰色の封蝋のほうは、開けもしなかった。
「急ぎ王都へ戻れ、とのことです」
法務官は、何でもないことのように言った。
「査察の結果は、口頭で直に報告せよ、と。書面ではなく」
「書面に残したくない、ということですか」
「そう読めますね」
ベルトラムは石段を降り、待たせてあった荷車の脇に立った。来たときと同じ、駅馬車の乗り継ぎの、粗末な荷車だった。
「報告書は、書きました」と彼は言った。「夜明けの書式と、マティスの最初の記録の写しを添えて。口頭で報告しろと言われても、これは持っていきます。法務官府の記録に綴じるのが、私の務めですので」
「それで、あなたは大丈夫なんですか」
ベルトラムは、少し考える顔をした。
「たぶん、大丈夫ではないでしょう」
あっさりした声だった。
「上の方々は、私を辺境のどこかへ回すかもしれない。古い記録の整理か何かに。そうなったら、手紙を書きます。辺境の書庫の話なら、あなたと話が合いそうだ」
真壁は、笑っていいのかどうか、わからなかった。
ユストが館から出てきた。腕に、革表紙の帳面を抱えていた。汗で黒ずんだ、あの帳面だった。その上に、もう一冊、真新しい帳面が重ねてあった。
「法務官どの。お申しつけのものを」
ベルトラムは、新しいほうを受け取った。開くと、ユストの細かい字で、村の言葉と、その古語の意味が、びっしりと写してあった。空いたままの欄も、そのまま空けて写してあった。かえりぎ、のこしぎ、もつ。その横には、古語の訳語の代わりに、九十七年前の裁定の、束の番号と頁が書いてあった。
「一晩で、これを」
「半分でございます。残りは、また後日」
法務官は帳面を閉じ、外套の内側の、緑の封蝋の書状の隣にしまった。
それから、真壁のほうを向いた。
「帰り際に、と約束しましたね」
「はい」
ベルトラムは、荷車の轅に手をかけたまま、遠くの、ローデ村のほうを見た。
「私が古語を覚えたのは、十四の冬でした。粉屋の倅です。村の司祭が、私に字の才があると言って、冬のあいだ古語を教えてくれた。春になるころには、村で私だけが、証文を読めるようになっていた」
朝の風が、外套の裾を揺らした。
「その年の夏、村に金貸しが来ました。凶作の年でした。金貸しは、証文は古語で読み聞かせねば効き目がない、と言った。それで、私が呼ばれた。村で古語が読めるのは、私だけでしたから」
法務官は、繕った袖口をなでた。
「私は、書いてある通りに、古語のまま読みました。一語も落とさず、一語も足さずに。間違いのないように。それが正しい読み方だと、司祭に教わったので。村の大人たちは、私が読むのを、黙って聞いていた。ときどき頷いた。私は、皆がわかって頷いているのだと思っていた」
石段の上で、ユストが身じろぎした。
「頷いていたのは、わかったからではなかった。粉屋の倅が、司祭さまの言葉を読んでいる。それが、ありがたかっただけだ。二年後、私が読んでやった家のうち、二軒が畑を失いました。証文には、担保の条が、ちゃんと書いてあった。私は、それも読んでいた。書いてある通りに」
ベルトラムは、真壁を見た。
「そのとき思ったのです。私は、二度と、自分の知らないうちに道具にされるのは御免だ、と。誰よりも古語に通じて、誰よりも法を正しく読める者になろう、と。そうすれば、誰にも使われずに済む」
彼は、少し笑った。
「それで三十年かけて、法務官になった。そして気がつけば、古語の法を守る側に立って、あなたに照会状を書いていた」
真壁は、何も言えなかった。
「マティスの証文を読んだとき、あの夏の、頷いていた大人たちの顔を思い出しました」法務官は言った。「ホルツは、私だ。言われた通りに読んだだけだ、と言った。私も、そう思っていた。三十年」
彼は、荷車に乗り込んだ。
御者が手綱を取った。動き出す前に、ベルトラムは、振り返ってユストに言った。
「ユスト君。一つ教えてください。村の言葉で、さようなら、はどう言うのです」
ユストは驚いた顔をして、それから、一語を、ゆっくり発音してみせた。
法務官は、それを繰り返した。
ユストが、こらえきれずに吹き出した。
「何か、間違えましたか」
「いえ」ユストは目尻を拭った。「合っております。ただ、その、発音が。顧問どのと、同じところで」
ベルトラムは、真壁を見た。真壁は肩をすくめた。
法務官は、初めて声を立てて笑った。
荷車が動き出した。王都への道を、ゆっくりと遠ざかっていった。
*
卿が、真壁の横に来ていた。いつからそこにいたのか、わからなかった。
「顧問どの」
「はい」
「あの封蝋は、ヴァルデック伯爵家のものだ」
卿は、遠ざかる荷車を見たまま言った。
「わしが狩り場を質に入れた伯父は、ヴァルデック家に借りがある。前々から」
真壁は、卿の横顔を見た。
「エーベルが言っていた荘園の管理人が、どこの家の者か、わしは知らぬ。知らぬことにしておく。だが、凶作の前に畑を測らせることのできる家は、この国にそういくつもない」
卿はそれ以上は言わず、館の中へ戻っていった。
*
その夜、真壁は書庫で、回答書の続きを書いた。
三行目は、結局、書かなかった。
代わりに、こう書いた。
三、本件照会については、ハルデン領ローデ村マティスの借財証文に付したる読み聞かせの記録一通をもって、回答に代う。
法務官が持ち帰った報告書に添えられた、あの一枚のことだった。古語の正文と、村の言葉の写しと、借主が自分で問うた一行と。
帳面を開いた。新しい頁に、日付を書いた。
一、ローデ村の証文、残り七通。聖マルタンの日まで。
二、ホルツの読み直しに立ち会う。
三、ヴァルデック。
三行目を書いて、真壁は少し考え、その下にもう一行足した。
四、ベルトラムさんの手紙を待つ。
窓のそばで、ユストが、明日の読み直しのための書式を写していた。古語の表と、村の言葉の裏とを、一枚ずつ。
一枚目の下の欄は、空けてあった。
借主の問いを、書き入れるための欄だった。
〈第二話 了〉




